本日のテーマ 

【程よさの大切さ(2)

~釈迦の教え「有無同然」~】

 

 

――昨日(1)のつづきより

 

時として、“程よさ”が必要になるものです。

 

「過ぎたるは及ばざるが如し」

ということわざがあります。

意味は、度が過ぎることは、足りないことと同じくらい良くないということ。

 

 やり過ぎても、やらなくても…

 多くても、少なくても…

 早くても、遅くても…

 長くても、短くても…

 強くても、弱くても…

などでは、ダメなこともあります。

 

 

だから“程よさ”が求められます。

しかし、この“程よさ”を判断することが意外に難しいのです。

 

なぜ難しいか?

程よさとは、両方の失敗を知らなければならないからです。

例えば、

 やり過ぎてしまった…

 やるべきことが足りなかった…

人生では、両極端を知る、そんな経験の積み重ねからものの奥行き、深さを知ることで“程よさ”が見えてきます。

 

わたしは人生で、

 「楽しいこと」「苦しいこと」

 「健康」「不自由な体(大ケガをして)」

 「富」「貧乏」

の「良い」と「悪い」の両極端を経験してきました。

 

だからなのでしょう、人生で特別に良いことが起こることなど余り望まなくなりました。

望んでいることは悪いことが起きないことです。

特別に良いこともなくても、悪いことが起きないことがわたしにとって“程よい”ことです。

だから“程よさ”とは、普通のこと(普通にこそ価値がある)であり、それで十分に幸せを感じられます。

 

次の教えは、“程よさ”を見つけることに相通ずるものがあり、わたしが大切にしてきたことです。

 

釈迦は「有無同然(うむどうぜん)」ということを説きました。

 

ものが

 無くても…

 有り過ぎても…

困ります。例えば、

「お腹が空く」と「食べ過ぎる」

「下痢になる」と「便秘になる」

「痩せすぎる」と「太りすぎる」

「足りない」と「多すぎる」

 

どちらも満足を得ることがなく、悩みの原因となってしまいます。

釈迦の説いた「有無同然」は、

「有る苦しみも無い苦しみも、同じ苦しみであり苦しみに変わりはない」

ということです。

 

これに気づいている人はそう多くはいないかもしれません。

釈迦は何を教えようとしているのか?

 

それは、

「程よさの価値」

ではないでしょうか。

 

“程よさ”を知れることが大切であり、人生では、この“程よさ”を知ることこそが幸せに近づけるのだと、わたしは思うのです。