本日のテーマ

【愛には技術がある】

 

 

日頃の会話ではよく、

「愛」

というキーワードが出てきます。

しかし、この‟愛”についてですが、改めて考えてみると、こんな思いになりました。

 

「‟愛”とは、その人が認識した愛の深さや広さがあり、人によって愛への認識や愛し方が異なるのかもしれない……」

 

 

「愛とは何ですか?」
この問いにどれだけの人が答えを持っているでしょうか?

 

愛とは
 好き…
 恋… 
 恋愛…
とも違うように思えます。

 

では、恋と愛の違いは何でしょう?


 

わたしは、「恋」と「愛」については、

好意をもっていることには変わりがないのですが、深さに違いがあるように思います。

また、愛にも色々な対象があります。
 異性への愛…
 夫婦愛…
 家族愛…
 親子愛…
 兄弟愛…
 友人愛…
 人類愛…
 動物への生命愛…
 物への愛着など…


ドイツの社会心理学、精神分析の哲学の研究者であるエーリッヒ・フロムは、
「愛は技術だ」

と言っています。

 

とても興味深い表現です。

しかし一方では、

「愛に技術があるとは思えない」

そう思う人もいるでしょう。

 

わたしがなぜ愛には技術が必要だと思うかですが、

技術とは深さとでもいうのでしょうか。

人は自分が愛だと思っている愛し方しかできません。

だから愛を学び、愛し方を知ると、相手をもっと深く愛することができます。

 

愛が長続きしないという人は、愛の技術が足りないのかもしれません。

もし心当たりのある方は、フロムの見解を参考にしてみてください。

フロムの著書『愛するということ』(鈴木晶訳 紀伊国屋書店)の一文をご紹介しましょう。

 

「愛について学ぶべきものは何もない、という思いこみを生む第三者の誤りは、恋に『落ちる』という最初の体験と、愛している、あるいはもっとうまく表現すれば、愛のなかに『とどまっている』という持続的な状態とを、混同していることである。それまで赤の他人同士だった二人が、たがいに隔てていた壁を突然取り払い、親しみを感じ、一体感をおぼえる瞬間は、生涯をつうじてもっとも心躍り、胸のときめく瞬間である。(略)ふいに親しくなるというこの奇跡は、二人が性的に引きつけあって結ばれるとか、性的な関係から交際がはじまった場合のほうが起こりやすい。しかし、この種の愛はどうしても長続きしない。親しくなるにつれ、親密さから奇跡めいたところがなくなり、やがて反感、失望、倦怠が最初の興奮のなごりを消し去ってしまう。しかし、最初は二人ともそんなこととは夢にも思わず、たがいに夢中になった状態、頭に血がのぼった状態を、愛の強さの証拠だと思いこむ、だが、じつはそれは、それまで二人がどれほど孤独であったかを示しているにすぎないかもしれないのだ。(略)愛することをやめてしまうことはできない以上、愛の失敗を克服する適切な方法は一つしかない。失敗の原因を調べ、そこからすすんで愛の意味を学ぶことである。そのための第一歩は、生きることが技術であるのと同じく、愛は技術であると知ることである」

 


そう言われてみれば、生きることはまさしく技術です。
人生は経験を活かし、生きる技術を磨きながら生き方を形成しているわけですから、これは技術をつけながら生きていることになります。
それと同じように愛にも技術があると納得できます。
未熟な愛は長続きしない、なんだか自分の若い頃を言いあてられているようでした。
幼い愛から成熟した愛、まるで小学校から大学まで学問のレベルがあるように、愛にも技術のレベルがあることを感じます。
また、フロムは“愛する対象”についてこのようにも述べています。

 

「愛とは、特定の人間に対する関係ではない。愛の一つの『対象』にたいしてではなく、世界全体にたいして人がどう関わるかを決定する態度、性格の方向性のことである。もし一人の他人だけしか愛さず、他の同胞には無関心だとしたら、それは愛ではなく、共生的愛着、あるいは自己中心主義が拡大されたものにすぎない。ところがほとんどの人は、愛を成り立たせる対象であって能力でないと思いこんでいる。それどころか、誰もが『愛する』人以外は誰も愛さないことが愛のつよさの証拠だとさえ信じている」

 


愛の技術を磨くと、愛する対象者も広くなるということです。
きっとマザー・テレサは、高いレベルの愛の技術を持っていたのでしょう。

 

■マザー・テレサの言葉…
「貧しい人々が一番求めているのは、哀れみではなく、愛なのです」