本日のテーマ

【人から認めてもらうことの大切さ

~勤勉を学ぶ~】

 

 

自分の言動や考え方、実績が、人から認めてもらえることは、人生に大きな影響をもたらすことがあります。

 

人が認めてくれたからこそ、何かを依頼されたり、選ばれたりすることがあります。

それが出世や運を開くキッカケになります。

 

 

わたしが感銘を受けたお話があります。

このお話は「人から認めてもらうことの大切さ」を説いています。

 

戦前の小学校は尋常(じんじょう)小学校と言い、学校教育において人として成長するために必要な「修身」が教科の科目にありました。
修身とは、現在の「道徳」に相当するものです。
その尋常小学校の高等小学修身書の巻一では、勤勉の大切さについて書かれています。
今回は修身書をわかりやすく解説した本『修身の教科書』(小池松次編 サンマーク出版)の中からご紹介させていただきます。

 

勤勉は幸福の母――伊勢屋吉兵衛(いせや・きちべえ)
昔、伊勢屋吉兵衛という商人があった。

幼名を吉松といい、11才のとき、商人になろうと志を立てて、3人連れで近江(おうみ)からはるばる江戸へ出てきて、麹商(こうじしょう)伊勢屋彦四郎の家にたどり着いた。

ほかの2人はすぐわらじを脱ぎすて、足を洗ってさっさと上がったが、吉松は脱いだわらじの土を洗い落とし、垣にかけておいて、それから足を洗って上がり、ていねいに主人にあいさつした。

彦四郎はこれを見て、将来見こみのある若者だと思った。
この家には20余人の若者がやとわれていたが、吉松は皆にすぐれてよく働いた。

毎朝ほかの若者がまだ起きないうちに、一度遠方へ麹を売りに行って帰り、それからまたほかの者と同じように近辺を売り歩いたから、売上高がいつもほかの者の倍以上もあった。

夕方には若者がめいめい米一臼(ひとうす)ずつついて仕事を終え、そのあとは皆勝手に遊びに出たが、吉松はいつも居残ってほかの者のついた米の後始末などをした。

このよう一生懸命に働いているうちに、吉松はいつしか18歳になった。
彦四郎は吉松の勤めぶりに感心して、一度その心底を確かめたうえで大いに取り立てようと考えた。
ある朝、吉松は商いが多くてほかの者よりも遅れて帰ってきた。

まだ朝飯も食わないのに、彦四郎は吉松に「水一荷(いっか)くんでこい」といいつけた。吉松は勢いよく水桶(みずおけ)をかついでいって一荷くんで帰ると、主人は「もう一荷くんでこい」といいつけた。
このとき、ほかの者は皆もう飯をすませているのに、主人はその者らにはいいつけずに、どうして自分ばかりにくませるのだろうと吉松は不審に思った。が、もとより骨惜しみしない吉松のことであるから、いわれるままにまた出かけてくんできた。
すると主人は、「ついでにもう一荷くんでこい」と三たびいいつけた。

井戸はかなり遠くにあった。

吉松は、今は腹はへり、足は疲れて一歩も踏み出せないようであったが、主人のいいつけをだいじに思って、やっとのことでまた一荷かついで帰った。
彦四郎はこれを見て大いに喜び、吉松を自分の前に呼び寄せて、新しい衣服を取り出して着替えさせ、「さぞ腹がへって疲れたろう。

自分もまだ飯を食べずに待っていた」といって、吉松に鯛の焼物などの料理を与えていっしょに食事をさせた。

それから彦四郎は若者一同を呼び集めて、「今日から吉松は吉兵衛と改名させ、番頭を申しつける。

それを不服に思う者にはひまやってもよろしい」といい渡した。
吉兵衛はその後十余年間少しも変りなく誠実に勤めた。

そこで彦四郎は屋敷を買い求め、資本を出して、吉兵衛に大きな呉服店を経営させたが、これもおおいに繁昌した。
のち、彦四郎は死ぬとき、吉兵衛の日ごろの勤勉に報いるために、その呉服店をすっかり吉兵衛にゆずり与えた。

それから吉兵衛はますます家業に励み、店はいよいよ繁昌した。

のちにその家から出て伊勢屋を名乗る者が53軒にもおよんだということである。

 

 

昔より人から認められた人たちが出世をしてきました。
最初はほんの小さなことから人に認められてきたのです。

尋常小学校の修身書にはこのように人から認められた人たちの話が多く掲載されています。
このことは昔から立証されています。
充実した人生を歩むために、いくつになっても人から認めてもらえる自分づくりを心がけたいものです。