本日のテーマ

【余命宣告されてから自分にできること】

 

 

わたしは、「もしも」というキーワードで様々なことを想像し、考えてきました。

 

たとえば“死”です。

「もしも自分が余命宣告されたら…」

このことを考え、今から準備をしています。

 

余命宣告された人もそれぞれの考え方があるようです。
 後悔する人…
 絶望する人…
 嘆く人…
 悲しむ人…

また逆に
 覚悟を決める人…
 余命の生き方を考える人…
 残された時間を活かす人…

 

さまざまな気持ちはあると思いますが、どんな気持ちであろうと、生きていられる時間は変わりません。

 

実際に余命宣告された人の立場にならないと分からないこともあるのかもしれませんが、わたしは自分が、もしも余命宣告されたらどうするかを考えています。
その時に自分にできることを全身全霊傾けやりたいと思っているからです。

 口がきけなければ、書きながら…
 口もきけず、書くことも出来なかったら目を使い…

 

余命三カ月の宣告を受けたある老婆の話を知り、とても参考にったことがあります。
書籍『生きていくことの意味』諸富祥彦著 PHP新書より

 

余命三カ月と診断されたある老婆。先はもう長くないことを察した彼女は、次第に自己中心的な態度をとりはじめました。見舞いに来てくれた家族や看護婦に横暴な態度をふるい始めたのです。自分はもうすぐ死ぬのだから、まわりの人は自分に尽くしてくれて当然と言わんばかり。容姿も気にかけなくなって、なりふりも構わず、化粧も一切しなくなっていました。その彼女がある朝、ふと窓の外を見やった時のことです。彼女の目に映ったのは、憔悴(しょうすい)しきったサラリーマンたちの姿。老婆はそこで、「人生で絶望しているのは、自分だけではないんだ」ということに気づいたのです。元来、陽気で活発な性格の持ち主であった彼女は、その翌日、看護婦に頼みました。化粧を整え、車椅子を外に出し、押してもらうことを。そして、会社へと急ぐサラリーマンの一人一人に「行ってらっしゃい」と微笑みかけていったのです。最初は、何のことか戸惑っていたサラリーマンたちも、次第に、ニッコリと笑顔を返してくれるようになりました。彼女にも、疲れきって曇った顔だったサラリーマンたちの顔に微笑みと元気が戻ってくるのが、手に取るようにわかりました。これが嬉しくて、サラリーマンへの朝の挨拶はこの老婆の日課となりまいた。そして、それが生きがいとなってか、老婆は医師の予測より倍以上も生きたといいます。

 

 


この話は、どんな状況にあっても、自分に何か出来ることがあると教えてくれています。
わたしは、ふとこんなことを考えました。
「もしかしたら、余命宣告されたときが、人生の総決算なのかもしれない」
 

その時に、
 残された時間で何をするか…
 何をすることが自分にとって価値あることか…

今から準備しておきたいです。