小説「92枚の単語帳」5 | くおのブログ

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12.

 

『・・・あっつい。』

払った靴底のマウンドの土のにおいが、体中をつつみこんだ。スタンドでは、1塁側も3塁側もやかましいくらいに、今日最大の応援の声を響かせている。

俺は昨日、守る価値もなかった薄っぺらいプライドを捨てて、ビルからの帰り道、単語帳をしっかり握りしめたまま大声を出して泣きながら歩いた。

そのまま家に着き、やっと2時間ほど眠れたあと、俺はいつものように彼女からのメールを別のフォルダに移そうとした。そのとき、はじめて彼女の92個のダメだしのような告白が、最後のメールの『そういうとこ』だったということに気がつき、俺はまた声をだして泣いた。

そして朝になると一番に、彼女の家に彼女のグローブとあのボールを取りに行った。彼女の位牌の前に座ったとき、彼女が逝った日が、最後の入院をしてから92日目だったことを知って、また涙を流した。

俺の涙腺はすっかり壊れてしまったようだ。

しかし、彼女の母親が言っていたように、『泣いてしまったら、少しは楽に』、なった。

 

だからこそ今日、俺は、どうしても『ここ』に立ちたかった。

 

今度、彼女に会うときは、ちょっとどころか、かなり時間をすぎてしまうことになる遅刻魔の俺を、当分聞くことができない彼女の93枚目からの『好き』に、加えてほしいと思った。

 

ツーアウトのあと、バッターボックスに入った彼は、次の4番バッターに回すべく考えで何かしかけてくるにちがいないとは、わかっていた。しかし、俺の脳は、数分前から何か考える機能をすっかり放棄していたし、体も全く思いどおりには動かない。ただ、数メートル先で、しゃがんだまま俺にサインを出し、俺の球を待っている仲間にいわれるがまま、いつになったらこの指示を止めてくれるのかさえもわからずに、俺は投げ続ける。

 

「ラス・イチ」

 

球筋のサインとともに、送られてきたのは、試合を決める仲間からの最後の合図だった。

球は、確実にスピードを失っている。もう、これで最後だとわかっていても、俺に力はすでに残されていない気がした。

俺は空を見上げた。ふと、彼女の言葉を思い出す。

 

『垣内は、私が応援に行かないと全然ダメなんだなぁって。』

 

『女ごときで、どうにかなっちゃうような野球、俺がしてると思う?』

 

俺はあの時、彼女にそう言った。

苦笑いして左胸のポケットごしに単語帳を強く2回握りしめる。

 

こんなふうにマウンドの上で追いつめられたピッチャーは、たとえば神様にどんなことを願うのだろうか。想いを込めた最後の一球がキマルように、『どうか、俺たちを甲子園へ行かせてくれ』なんだろうか。俺は、ちがった。

 

『俺、アンタの存在なんて信じてなかったけど、もし、ホントは居るんならさ。ちゃんと生きてくから。アンタが決めた、その寿命まで、俺ちゃんと生き抜いていくから。・・・だから、頼むよ。来世も、その次もまたその次も、きちんと『リコ』に会わせてくれ、な。で、その時はふたりでいる時間を必ずもっと長くしてくれよ。それって・・・欲張りじゃ、ねぇよな?』

 

大きく息をつき、微笑んで前を見る。

構えた仲間のサインは、ストレートだ。俺は迷わず首を縦に振った。

全身の力を集め、俺は、数メートル先の仲間が持つキャッチャーミットめがけて、ボールを投げ込んだ。

 

 

                              おわり

 

(誤字乱文は、ご了承ください。最後までつきあってくださってありがとうございます。)