テゴマスの「タイムマシン」を聞きながら、よぎった小説。時間のある方だけ。
「92枚の単語帳」
1.
外は、まだ激しい雨が降り続いている。
彼女は、今、12cmの白い陶器に入ったままだ。
覚悟はしていた。彼女と出会ったのは、俺も入院していた病院で、今回の入院でもう、先がそんなに長くないことも、彼女の母親から聞かされていたからだ。
それでも、俺たちは、彼氏、彼女の関係を止めようとはしなかった。
彼女が1学年上の同じ高校に通っていたことは、俺が退院した後、知った。
「わたし、今、休学してるから、夏までに戻れば、同級生になるんだよね?」
彼女は、年下である俺をちょっと子供扱いしながら、笑って言った。
俺は、小学生のときから投げる球が早く、野球部に入った中学1年から、いきなりレギュラー扱いで、周りからも一目をおかれていた。中学3年になると野球に力を入れていると言われる名門の各高校から、スカウトの人が家にやってきては、親と話をして帰って行った。しかし、結局俺の親は、俺が行きたい高校に進めばいいと、そんなスカウトの言葉に耳をかすことはなく、俺は平凡な公立高校に進んだ。それが良かったのか、悪かったのか、俺は、高校1年の春、交通事故にあった。三日間の昏睡状態のあと、目が覚めた俺は、一ヶ月の入院で普通の生活が出来る状態になったが、左手にほんの僅かな麻痺がのこり、中学の頃のようにコントロールの利いたスピードのある球を投げることは不可能になった。緩い部活動として野球を続けることはしたが、楽しくはなかった。
「野球、してるの?」
リハビリのため、持っていた野球のボールを病院のロビーで拾ってくれたのが、彼女だった。
「どうも。」
俺は、たしか、返事もろくにせず、待合いの長イスに腰を下ろした。すると、彼女も同じイスに腰掛け俺にニコニコしながら話しかけてきた。
「わたし、野球ができる人って好きなんだよね。なんか、公園とかでキャッチボールとかするのが夢で。『おい、リコ!ちゃんと取れよ。』みたいに言われたら、このあたりがきゅんきゅんする。」
彼女の第一印象は、『初対面なのによくしゃべる女だな』となんだか少しウザく感じていた。
「坂木 リコさん!」
「はぁい。呼ばれちゃった。ね、今度、そのボールちょうだいね。」
勝手にされた約束を、俺は破ることもできず、二日後彼女にボールをあげた。
俺は、たぶん、その時から坂木リコを好きになった。
2.
「野球って、やっぱり左なんだ。」
同級生になった彼女は、自主練習で、バットを振る俺の姿をフェンス越しに見ながら言った。
「右投げ、左打ちがいいって、言われてる。」
「垣内は、右投げ?」
「いや、俺は左。でも、左、軽い麻痺、残っててもう、昔みたいなスピードじゃ投げられないけど。」
彼女は、グランドのそばまで来ると俺にボールを投げた。
「じゃぁさ、せっかくだし、右投げにしなよ。」
「はぁ?」
『こいつは、なんてむちゃくちゃなことを言うんだ』と思った。小学生の頃から左手で投げ続け、そこそこどころか、名門からのスカウトがあるほどの左投げピッチャーが、野球を知りもしない女子高校生に言われて「そうですね。」と言って変えて投げられるほど、野球は甘くないことを、彼女は知っているのだろうか。しかし、俺は、その日の帰り彼女に強引にスポーツ用品店に連れて行かれ、左手用のグローブを買った。と同時に彼女は、少し小さめのグローブを買って、俺は、薄暗くなった公園で彼女とキャッチボールをするはめになった。
彼女は、野球を知らないとは言いつつも、キャッチするグローブの使い方や投げるフォームは、なかなかさまにはなっていたが、体力のない彼女のボールが、俺のところまで届く事はなかった。あまりにもキャッチボールにならないので、俺は言った。
「リコ!無理するなよ。もっと近くに来いよ。」
「ううん。それじゃぁ、垣内の全力の右投げがわかんないじゃん。」
そう言って、6回ほど俺が投げたとき、彼女は苦しそうに肩で呼吸をしながらしゃがみ込んだ。
「ばかか!だから言ったじゃん、無理するなって。・・・だいじょうぶか?」
そういいながら駆け寄った俺に、息をあげて彼女はほほえみながら言った。
「右投げの垣内もかっこよくない?」
俺は、全くわかってはいなかった。その時は、彼女の血液の中に、軽くキャッチボールができる体力さえも奪ってしまうほどのとてつもない奴がいることに気づきもせず、ただ、彼女の言った一言がとても愛しくて、少しうかれていた自分がいた。2年後、俺は野球をすることが楽しくなったし、コントロールこそ微妙だが、ストレートでは左投げの時より、スピードを出すことができる右投げのピッチャーになった。でも、俺が右投げになったのを、入院した彼女に言ったとき、『私のおかげなんだから、その感謝の気持ちを言葉にして手紙を書いてよ。』と意地悪をいう彼女に、素直じゃない俺は、ごまかしながら答えた。
「でも、俺、実は右利きだったんだ。親父が野球させたいからって物心つく前に、左利きに洗脳させられたんだって。左で飯食うの、なんか違和感あったんだよね?」
「なに、それ。垣内、右利きなの?16年間生きてきて?・・・気づかない?ふつう。」
両手を叩いて笑った彼女が、また退院して戻ってきたとき車イスになったことが、俺らの距離を少し遠ざけたような気がした。
3.
ごく、平凡な公立高校が、春の大会で決勝まで勝ち進んだことがめずらしいのか、高校で俺は目立つ存在になった。まして、車いすの彼女が横にいればなおさらで、2年生になってクラスも違っていたこともあり、彼女は気をつかってか、俺の横にいない時間が増えた。でも、俺は、そのことが逆に彼女に避けられている気がして、日々苛立っていた。彼女の興味が、俺以外になったんじゃないかと、訳もわからない気持ちをよく彼女にぶつけた。でも決まって彼女は俺に言う。
「垣内、好きだよ、ホントに。」
しかし、その言葉も信じられなくなっていた俺は、確かめるために野球の練習が短くなる中間テストの期間中、呼び出して全く別れたくもないのに、別れ話を切り出した。
「ごめん。だけどこれは、お前が車イスだからとかじゃないんだ。・・・俺、野球とかでこれから忙しくなるから。」
「わかってるよ。垣内が謝ること、全然ないって。うん、わかった、別れよ。」
「・・・やっぱりな。」
「ん?」
「いいや。・・・じゃ、リコも通院、がんばれよ。俺も、野球、頑張るから。来年の夏が最後だからさ。」
あの日、ホントは彼女に『垣内と、別れたくない。』とか、泣きながら『いやだ。』とか言ってはくれないかと内心は思っていた。だからあっさり、『わかった』と言われたことに、俺は、彼女の愛情をこんなものかと軽くみていた。結局、3週間もたたないうちに俺は、どうしても彼女に会いたくなって、キャッチボールをした公園に向かった。彼女は、車イスではなく、ゆっくりとした足取りでやってきて、俺が座っているベンチに腰掛けた。
「今日は車イスじゃないの?」
「垣内は、私にあわせてくれるからね。」
「どういうこと?」
「ん?何でもない。・・・あのね。」
「あっ、俺、国体の強化選手に選ばれたんだ。」
「え?すごいじゃん。県で選抜されたってこと?」
驚いたあとに嬉しそうにする彼女のしぐさを見ると、俺は抱きしめたい衝動をこらえるのに必死だった。
「・・・ごめん、垣内。」
「え?」
「あのね。・・・無理。もう、無理だよ。やっぱり。」
俺が言ったんだ、『別れよう』って。だから、こんなふうに俺が彼女を呼び出すのは、完全に筋違いだった。うつむいた彼女から涙が落ちた。弱い彼女をみたのは、たぶんこの日が最初で、最後になったと思う。
「・・・垣内がいなきゃ、私がんばれないよ。こういうの、垣内が重くなるのわかってるんだけど。・・・わたし、垣内の声聞いたり、メールみるだけで、それだけでもいいの。垣内が・・垣・・・。」
衝動を止めるものなんて必要なかった。俺は、迷わず彼女を抱きしめた。俺の胸で声を出して子供のように泣く彼女は、前に抱きしめたときよりもずいぶん痩せていた。だから、なおさら、これから先どんなことがおこっても、もう絶対別れようなんて言わないと俺は決めていた。
つづく