新城市の白鳥神社さんから古宮城跡へ入ります
奥三河の旧作手村(新城市)には、日本武尊に因む白鳥神社が11社も集中している。
湿原地帯だった作手高原はかつて白鳥の飛来地だった。
白鳥の糞が肥料として古代の水田耕作に恩恵をもたらしていたこともあって、古代からこの地区には「白鳥信仰」があった。
それが、後に「日本武尊の白鳥伝説」と習合したため、白鳥神社が集中したと考えられている。(参照資料:作手村歴史民俗資料館の資料)
◆古宮城◆
古宮城は新城市北西部で標高約535m地点の作手地域の中心地に所在する。ここは周囲を低い山地で囲まれた高原的な地形で、そのほぼ中央部に形成された宮山と呼ばれる独立丘陵に城郭は立地している。また、独立丘陵地の西側を除く3方は泥炭層の湿地に囲まれており、自然の要害地的な地形となる。その湿地は現在、田んぼとして周囲に広がっている。
周辺地には川尻城跡、亀山城跡、塞之神城跡、文殊山城跡といった武田氏とこの地域を治めた国人領主の奥平氏に関する城郭が立地している。
古宮城は武田信玄が築城し、その縄張り設計は馬場信春が行ったといい、時期は元亀3年(1572年)頃のことと考えられる。
天正元年(1573年)の「古宮城の戦い」で、城に火が放たれたことで廃城となったとする説がある一方で、「御湯殿上日記」によると、天正3年(1575年)に徳川家康の家臣であった大岡弥四郎、山田重英らは武田勝頼に内通して謀反を起こし、その際、勝頼は作手筋に出馬する予定を伝えている。
この作手筋の詳細は不明であるが、恐らく「古宮城」を指しているものと推測される。同年に起こった「長篠・設楽原の戦い」で織田信長と徳川家康の連合軍に武田勝頼が敗北したことで、古宮城は次第に武田氏の拠点城郭としての性格が失われていったものと考えられる。
「続日本100名城」のスタンプは、作手歴史民俗資料館に設置しています
白鳥神社境内の奥にある古宮城跡へ向かいます
登ったところにある堀です
これってアワフキムシ
大ひのきが見えてきました