観音寺城とは、滋賀県近江八幡市(旧蒲生郡安土町)にあった山城(やまじろ)。
国指定史跡。
月山富田城(島根県安来市)、七尾城(石川県七尾市)、春日山城(新潟県上越市)、八王子城(東京都八王子市)とともに、日本五大山岳城の1つに数えられている。
繖(きぬがさ)山(標高432.9m)の山上に築かれていた城で、安土城以前の中世城郭としては珍しい総石垣の城である。
古くは宇多源氏佐々木氏が本城としていた城で、佐々木氏が六角・京極・朽木の3流に分かれた後は、嫡流の六角氏が居城としていた城である。
築城年代は明らかではないが、『太平記』によれば、南北朝時代初めの1335年(建武2)に、六角氏頼が北畠顕家の進攻を防ぐために、天台宗の寺院観音正寺を城塞化して立てこもったのが始まりとされている。
本格的に城郭として整備されたのは応仁の乱(1466~77年)前後で、当時の城主の六角高頼は応仁の乱で西軍に与したため、同じ佐々木流で東軍に属した京極氏と敵対し、しばしば観音寺城に籠城して東軍の攻勢をしのいだ。
その後、1556年(弘治2)には、城主の六角義賢が郭に石垣をめぐらすなどして城の守りを増強した。
1568年(永禄11)、織田信長は足利義昭を奉じて上洛を開始したが、このとき、観音寺城の六角義賢(承禎)・義弼父子は観音寺城に籠城して敵対した。
織田勢は観音寺城を含む六角方の城を攻撃。
その1つの箕作山城(東近江市)が落城すると、六角父子は観音寺城を捨てて三雲城に退いたため、観音寺城は織田軍に占領された。
その後、同城は廃城となった。
現在、城跡には曲輪(くるわ)、石垣、虎口、井戸、水路などの遺構が残っている。
観音正寺から横の道を下って振り返るとこんな感じ
入山料は500円です
シャガが咲いていました
6年前の桑實寺も結構登りました
ここでもシャガが咲いていました
暗渠排水が途中にあります
ドライフラワーになったアジサイ
龍みたいに曲がりくねった木
本丸からちょっと下ると井戸があります
続きます