伊勢の豪商と言われ竹川家、そこの現代の御子孫様の御厚意により、私たちは、お邪魔し、見学させていただきました。

翌日のお茶会があるとはいえ、御座敷、御茶席、御書院など、お忙しい中、御夫妻で、案内と説明をしていただきました。

そして、私は、日本建築の美しさ、芸術性、技、匠に、瞬きすることを忘れて、見いってしまいました。

今の建築には、手の技術、技はなく、機械仕事であり、人は補助にすぎません。

しかし、希望の光は、日本にはあります。

それは、伊勢神宮の御遷宮にあると考えます。

二十年に一度の建て替えです。

その主なる目的は、宮大工の伝授にあるからです。

行く末の人材教育です。

そして、ここ竹川家の竹川竹斎氏により、竹川文庫、射和文庫です。

それは、誰でもが自由に読書ができる空間、つまり、図書館です。

私財を投じ、親戚、友人なとから集められた私設図書館。

ふと、頭を過ったのは、米百俵の精神でした。

貧しさに飢えていた藩主のためにと、寄贈された米百俵を売り、将来の人材養成のための教育に投じた故事です。

竹川竹斎氏は、農産業、萬古焼など、そして、茶人の経世家でもあらせられました、。

裏千家の先代御家元とも、友人関係でもあり、竹川家で、月を見て、お酒を楽しまれたその証がのこされていました。

日本のそうそうたる方々、勝海舟氏、山岡鉄舟氏など、日本の幕末の方との関係もあり、書が残されていました。

では、私レベルの拙い視線ですが、ずうずうしくも、紹介させていただきます。

ゆきさんから、竹川家へのお誘いを受けて、はっと感じたことは、ご縁でした。

実は、庭の灯籠です。

これ、射和万古なんです。


石とは違い、焼き物の柔らかさとモダンさがあり、とても、庭に馴染んでいます。

それでは、射和豪商通りの入り口に建つ竹川家です。




御門をくぐらせていただくと、


玄関


射和文庫とありました。


勝海舟書の射和書院


御床の間には、五月ですので、節句の御飾りがされていました。

袋戸棚の下に書かれた書は、裏千家先代御家元の書かれたものだそうです。

御花押が丸印でした。

月を見、櫛田川から流れるせせらぎを聞き、酔った肌にあたる心地よい風、そして、友との語らいを、読まれたのでしょう。

様子が、目に浮かびますね。





御書院から眺めるお庭です。

山岡鉄舟氏の書かれた射陽書院


屋根の下は、御茶席への御待ち会いです。

井戸から汲まれた水をつくばいへ入れられ、客は、口をそそぎ、身を清め踏み石を踏み、御茶室へと、導かれます。


茶道口から、三畳の御茶室へ。

御床


御床掛には、茶道なるものが書かれてありました。

茶の湯とは、そう言うものかと、今さらにかんじました。


呂が、きってありました。

どんな密談されていたのかと、興味深く拝見させていただきました。


屋久杉天井の御座敷の御床の間に、銅鑼ではなく鐘があり、客を御茶室への入室の合図とされたそうです。

大、小、大、小、中、中、大と、美しい鐘の音が、響きわたったことでしょう。


庭が、ゆがんで見えるんですね。

これは、二度と作れない硝子です。

今の硝子は、機械が作り、精密過ぎて、ゆがみがないんですね。

でも、江戸末期明治大正の硝子は、手で研かれ、限界があるそうです。

それが、今では、大変貴重となっています。

以前、京都の東寺さんで開かれる骨董市でのことです。

懐かしい昔あったかき氷の硝子の器に、目が行き、幾らかと尋ねますと、20万円とか、言われて、聞き間違いかと。

これは、大正レトロの硝子細工だから高価なんだと、言われました。

びっくりして、落っこちそうになりました。


韓国の国旗をデザインされた方の書です。

日本のみならず、他国との交流までされていたのですね。


笹の欄間には、袋戸棚の絵も笹でした。

このお座敷は、目出度い空間なのかと感じました。

竹斎氏の書籍は、3000冊ほどになり、大切に保管されているそうです。

建物を見学させていただきました。

文化財としての価値たかく、このような所に、足を踏み入れさせていただき、そのころの豊かな環境に、あたかも自分がいるような錯覚に、とらわれてしまいました。

なんとも、素晴らしき経験をさせていただき、感謝の念につきません。

有り難うございました。

感謝のひとことにつきます。