「 われわれの判断力は 相変わらず病んでいて われわれの墜落した生き方に
   付き従ってしまっている 」


 本章の冒頭で モンテーニュが言っているのは 自分の考えや基準で人を判断することはやめたいと言っている。他人は自分と違うのだということをはっきりと認識することが大事だとしている。
 一方 それが中々出来ない人間の「判断力」に対して 「病んでいる」と位置づけている。

 僕らは時として「自分を持て。自分の考えを持て」と 言ったり 言われたりしている。それはそれで日々の生活、特に仕事などでは大事なのだと 今も思う。
 しかし それが持つ「毒」というものも わきまえないといけないと 今 このモンテーニュの言葉を読んで 肝に銘じたところだ。

昨年末に「獄中記」を読んで以来 この一年は佐藤の本が出る度に すぐ買う日々が続いた。本書もその流れで購入し 一気に読み終えた。  


考えれば考えるほど 佐藤という人は 今の日本の言論界では突出した人である。

僕の狭い知見で見る限り 佐藤に対する表立った批判は殆ど無く 完全に時代の寵児である。  


佐藤のような経歴と はっきりした物言いを考えてみると 幾らでも反論異論の余地があるような気がするのだが それが出てきていない。  やはり 佐藤の経歴に圧倒されてしまうのだと思う。


神学科でキリスト教を学んだ後に外務省にノンキャリアで入省し ソ連崩壊のモスクワで人脈を駆使し 帰国後は 鈴木宗男と北方領土に取り組み、鈴木宗男の失脚と同時に「国策捜査」にて入獄し 512日もの牢獄生活を 膨大な読書で過ごし 保釈後は 次々と著作を世に問う。


敢えて 長く一文で書き出してみたが こんな経歴の方は 最近では他には見たことがない。  

特に 牢獄生活を強いられた知識人などは ここ30年程度余り無かった話だ。佐藤に批判異論がある人も 相手が かような獄中期間に 検察と対峙しつつ 悠々と 哲学や宗教を耽読してきたという部分だけで 位負けしてしまっているのではないかと思うことすらある。


 本書は佐藤の「青春記」である。相変わらず キリスト教には疎い僕には 知らない人名も多い。


 但し これを読むことで ようやく佐藤の「獄中記」の背景が見えた気がした。というか 獄中で行ってきた読書や思索は 佐藤の大学時代の生活の延長にあったことがはっきり分かった気がした。彼は獄に入ったことで読書家・思索家になったわけではなく 読書家・思索家が 獄に入っただけの事なのだ。  


 しかし 凄い方である。



ロージナ茶房の名物カレーはザイカレーという名前だ。

 量が多いので 食べるときは妻と一皿を半分づつ食べることにしている。妻が辛いカレーが好きであったことを神に感謝する瞬間だ。


 食べていていつも思うのだが カレーらしくない。辛いことは辛いのだが インドの香料の味を感じない。牛肉のトマト煮込みを激辛にしたような感じとでも言えば良いのか。


 くにたちは カレーに関しては激戦区である。個性的な店が多い。すなわち その日の気分でカレーを選べる街である。カレー好きにとっては 住んでいて飽きない街である。

 食べ始めてから写真を撮ったので あまり写真写りがよくない点 ロージナ茶房に申し訳ない気がしているところだ。


月に一回 日曜の午後に 地元の公民館で無料映画上映会がある。僕も今まで「泥の河」「老人と海」「乱れ雲」「地球防衛軍」などを見てきた。本日は黒澤明の「羅生門」である。


 久しぶりに見た「羅生門」だっただけに 色々と発見があった。


 芥川龍之介の原作を得た黒澤が創った「羅生門」は 人間の不条理を描いた心理劇だと言われる。それはその通りだと思うのだが 今回 見ていて凄みを感じたのは その心理劇に「滑稽味」を加えた 黒澤の天才だ。


 主役の三船敏郎は すでに大スターだったと思うのだが とにかく 下品で粗野な役をこなしている。「七人の侍」でもそうだが 三船が三枚目役を上手に演じたことは 実はとても大事な事実なのだと思う。


 三船が下品であったことで ともすると理屈っぽくなりかねないこの映画に 生き生きとした力を与えている。僕は これを見て つくづく この頃の黒澤明が持っていた躍動感を思うのだ。これは例えば 黒澤の後年の「乱」や「影武者」といった作品が 静寂を旨としているのと対照的である。

 見終わって 外に出る。外は祭りだ。街中には 笛や太鼓の音が溢れている。雨が通り過ぎたせいか 涼しい。猛暑であった今年の夏も終わりつつある。


「学を為すは日々に益(ま)す。道を為すは日に損ず。これを損じて また 損じ もって為す無きに至る。為す無くして しかも 為さざるは無し」


 勉強をするときには 毎日 学んだことがふえていく。「道」をおこなうときには 毎日
 することを減らしていく。減らしに減らしていって 何もすることがないことにゆきつく。
 この 何もしないことによってこそ すべてのことがなされるのだ



 書き写していながら この言葉の難しさに呆れ返っているところだ。

 「老子」を読む魅力の一つとして ある意味トリッキーとすら感じさせる言葉の「切れ」にある。これは例えば「荘子」と比べても 「切れ味」は格段に「老子」のほうが上だ。

 「荘子」は ラブレーを思わせる饒舌と豊穣が その魅力であるとするなら 「老子」は 簡潔で鋭利である。この一文も そんな「老子」の 数ある「剃刀」の一つなのだ。


 それにしても 例えば この一文をどうやって英語に直して 英語圏内の人に説明できようか。「何もしないことによって すべてのことがなされる」などと言われて うなづく米国人が何人いるのだろうか?

 さっきからそんなことばかり考えている。

「自分の舟に 他の舟がぶつかるとする。当然腹が立つ。但し もしぶつかった舟に人が乗っていなかったら どんな短気な人でも怒らないものだ。」

 これも素直に頷けてしまうものが 僕には ある。

 荘子は言っている。舟がぶつけられたという事実は同じだ。もし相手の舟に人が乗っていたら当然怒鳴るだろう。場合によっては喧嘩になる。しかし もし相手の舟に人が乗っていなければ しょうがないと肩をすくめるだけだ。

 当たり前といえば当たり前だ。舟を自転車にでも置き換えれば 僕らにもわかる話である。最も誰も乗っていない自転車がぶつかってくるということは スティーブン キングの小説以外には無いと思うが。

 荘子は「己を虚しくして 主の居ない舟にようにしていれば 他人と喧嘩にならない」というような異種の処世術を説いているのかもしれない。しかし 僕が この話に魅かれるのは そういう理屈ではなくこの話の情景にある。


 霧の掛かっている川で 主の居ない舟がすうっと流れを下っていくという鮮烈なイメージが湧く。その孤独でありながら 毅然とした姿がいさぎよい。いささか 個人的な妄想かもしれないが そんな姿が目に浮かぶ。そうして それが心地よい。



 荘子は詩人である。

「つまだつものは 立たず」


 つまさき立ちしていると 長くは立ってられない

 

 そうなのだろうなと なんとなくため息をついてしまう 鮮やかな一言だ。


 僕らは時として 「つまさき立ち」を強いられて生きている。

 カルロス ゴーンなども 目標設定に関して「ストレッチ」という言い方をする。要は 頑張ってつまさき立ちすれば届くかどうかという目標を設定することが その人が伸びるかどうかにおいて肝要だというのだ。
 日産という会社で 従業員が つまさき立ちしている姿が目に浮かぶ。


 カルロスゴーンの言う事も分かる。確かに「成長」を考えた場合 つまさき立ちは重要だ。

 但し それに伴う「疲労感」というものも確かなのだ。老子も「長くもたないよ」という点を指摘しているのだ。それも 2000年前という過去から。


「ゆえに 足ることを知るの足るは 常に足れり」

  足りたとおもうことで満足できる者は いつもじゅうぶんなのである



 僕らは欲を持っている。強欲と言ってよいのかもしれない。


 人間社会の発達の原動力が「欲」であったことは間違いないと思う。僕らはいろいろなものが欲しくなり それを獲得するために一生懸命努力する。それが 歴史の紛れもない真実の一つなのだと思う。

 だからといって 老子の言葉を否定するのは尚早だ。

 僕らが発達してきたことの善悪を問われるのが 21世紀だと思う。環境問題、エネルギー問題など 正念場といってよい。

 そんな時代に 老子の言葉は味読されるべきだ。たとえ それが いかに難しいことなのだとしても。
ローマは多神教だった。塩野は以下のように書いている。


 「一神教と多神教のちがいは ただ単に 信ずる神の数にあるのではない。他者の神を認めるか認めないかにある。そして 他者の神を認めるというのは 他者の存在を認めるということである。」


 こう塩野が書いたのは1990年代初頭であったわけだが それから十年後の 9.11をある意味で予言した極めて重要な発言だと 僕は 今になって考える。


 日本は多神教である。そもそも 無宗教と言って良い。

 生まれてお宮参りは神社、育って七五三も神社、大人になって結婚式は教会、最後の葬式は寺。


 これを無節操といえばそれまでだ。しかし 宗教に対して節操がなく つまり無宗教であることが いかに僕らにとって 楽なのかも考えて見るべきだ。

 他の神を許さない 一神教が起こしている宗教問題は 紛れもなく21世紀の大きな課題である。科学がこれだけ発達しても 神を必要とする人は実に多い。神を必要とする事自体は問題ないにしても その神次第では 実に恐ろしい事が起こる。それが 現代の課題だ。

 そう考えると ローマの先進性も伺われるというものだ。塩野は その点を簡潔に指摘している。
王様が猿のいる山に登った。猿たちは大騒ぎして逃げたが 一匹の猿だけは逃げなかった。

 これみよがしに木と木の間を飛んでいる。

 王様は矢を射らせた。猿は軽々と矢をつかみとって自慢した。

 王様は更に矢継ぎ早に 矢を射らせた。猿はとうとう矢に当たって死んでしまった。



 荘子が戒めているものは 自分の才を誇る点にあったのだろう。王様に「尊大ぶって他人を見下すのはやめなさい」と その後で言わせている。

 あまり荘子らしくない気もする。僕の考える荘子なら「才能の有る無しは そもそも相対的なものであって どうでも良い」という方向に話を展開すると思っているからだ。

 話としては 笑えない。僕らも色々な「矢」が飛んでくる中で生きていっていることも確かだからだ。矢を掴んだり 矢から逃げる方法を処世術と呼んでいるのも僕らなのだろう。そんな中で そもそも矢が飛んでこないようにしたらどうかと読めば 荘子らしいとも言えるか。