「やればできる」
このタイトルでお話を書かれていたのは、三戸学さん。
現在、秋田市立秋田西中学校の数学の教師だ。
この先生、出産時のトラブルから、身体障害者手帳一級一種の脳性マヒとのこと。
その記事の中で、これまでに感じてこられたことなどを読ませていただいたのだが、どこか私にも共感ができる話であった。
「クラスの雰囲気は担任の先生で決まる」
これは私も同じことを感じたことがある。
私は高校2年の1学期、その期末考査でカンニングを実施。
見事に同級生のタレコミに遭い、軽い監獄行きとなったのだ。
これだけなら笑い話で済むところ。
しかし、当時の担任が尋常なヤツではなかった。
簡潔に言うと、私の処分をクラス全員の多数決によって採決したのだ。
いまだにその意図が不明な出来事のひとつである。
結果的に私は停学になったのだが、腑に落ちるわけがなかった。
幸い当時の私は野球と受験勉強という没頭すべきものを見つけていたために、そんなことはさておきといった感じで高校生活を終えた。
ふと大学に入ってこのことを考える時間があったのだが、やはり理解できない。
というのも、私はその一件があってか、教師になるための大学に進学したからである。
自分ならどんなクラスにするだろうか、どんな教師になりたいか。
それを考える上で、実はかなり大きな判断基準となっている出来事である。
実際にはこうして会社の社長をやらせていただいているわけだが、そのときの経験は、今のマネージメントにも活かされているといえなくもないと感じている。
クラスか会社かという違いでしかなく、ひとつの集団をまとめる上で常に考えさせられることだ。
最後に、私は当時の担任のような教員を野放しにしておくわけにはいかないと考えている。
民間企業なら間違いなくモラル不足で窓際か左遷だろう。
だが公務員にはそんな感覚はない。
自分が思うように仕事をこなせばそれでよい。
そんな世界が許されてたまるものか。
教員の世界には市場原理が必要だと感じる。
私は教師を目指し、そのための勉強をした者のひとりとして、教員の世界の不条理を立て直す使命を感じている。
努力をしたものが正当に認められる、そんな資本主義のこの日本では当然あるべき考え方を、教員の人々には感じて欲しい。
三戸さんのような教師の鑑のような人と、何のモチベーションももたない教師を同じ待遇にしているということは、どこかおかしいとはいえないのだろうか。
教育産業に携わる人間として、このことはずっと言い続けて生きたいと思う。