Ψ筆者作「プロヴァンスの村」 F10 油彩

 前稿二元論を人間について考える。例えば「歴史」は現象世界の因果や偶然性の積み重ねにより出来ている。従って、その表面の事実関係や経緯を知ること自体は「現象世界」を知ることに他ならず、その限りでは歴史の半分しか学んだことにはならない。問題は、その歴史が教えること、歴史の定流にある真実、本質を学び取ることである。法律もその条文や適用法だけを知っていても、その法律の寄って立つ「精神」を知らない法曹者は二流以下であろう。

 確かに人間は長い時間をかけ、学び、経験し、知識や技術は進歩し、暮らしは便利になり、叡智や倫理により良きものが整備され、悪しきものは克服され、そのようなことが「時代」の進歩として語られるようになった。人間も何がしかの社会的存在として、その「現象世界」の集団性の中に組み込まれ、その中での人生の意義や個人の価値が云々される。国際社会、政治、経済、法律、メディア文化、職場、学校総て現象世界である。

 しかし、先に述べた通り世界の宗教や哲学は数千年を経た今日もその教義は変わっていない。ということは、とりもなおさず教義を受ける側の人間の「本質」は、その現象の如何に関わらず数千年前、否そのもっと前から変わっていないということに他ならない。

 誰をも一皮剥けば、相変わらず弱く迷い多く愚かで、「四苦八苦」に苦しみ、怯え、泣いたり叫んだりし、その存在は不安定で、明日どうなるかもわからないではないか。筆者は、この人間の「本質」に係る存在を「原存在」、現象世界に係る存在を「社会的存在」と一応定義している。家族も最小単位のその「社会」に他ならない。この現象世界も仏教は看破している。「色即是空空即是色」、つまり、その空しさである。