Ψ筆者作「モンサンミッシェル」 F120 油彩

 先稿末尾に述べた、デカルトの有名な「われ思う故に我在り(Cogito, ergo sum)」という言葉の意味は、思惟すること、森羅万象総てを「疑う」ということで人は存在できる、平たく言えば、眼前の現象は、いい加減さや不合理や曖昧さや嘘に満ちている。自分自身さえも本当は何者なのか分からないし、何を信じて生きていけば良いかわからないし、その存在すら疑わしい。しかし、「思い疑えば」、その思い疑うという行為自体は嘘のない事実なので、その限りにおいてその行為の主体である自我も存在できる、「故に我在り」ということである。

 大学の哲学の時間でそのようなことを教えてもらって以来、というか、元々の性格もあって今日まで森羅万象を思い疑い続けてきた。人からは、猜疑心が強いとか、ひねくれている、素直じゃないとか言われそうだが、多く見かける流されているだけの人間にだけはなりたくないのでこの言葉は座右の銘となっている。

 そこで突き当たった最大の疑問は以下様なものであった。

 例えば、「生々流転」、「諸行無常」、「有為転変」あるいは方丈記(行く川の流れは絶えずして…)や平家物語(祇園精舎の鐘の声…)などにある無常観は、なるほど最ものことと思えるが、一方「永劫不変」、「永遠」、「絶対」、「原理」等全く変わらない対極にあるようなものも定義されている。

「無為自然」というのも人為を排して宇宙の原理や絶対性に従うべしというという考え方であろう。仏教的には、前者を「有為」、後者を「無為」と呼ぶ。さてどちらを信ずればよいか?この対立概念は「二元論」に立てば説明できそうである。西洋哲学でも言葉の違いこそあれ、「外観」「現象」「表象」等の可変的なものと、「内実」「真実」「本質」等など不変的なものとの二元論を認めているではないか。筆者は森羅万象、人間を「現象」と「本質」と二元的に概念することにより、いろいろなものが見えてきたような気がする。