カラバッジョは38年の短い生涯の中で、喧嘩、訴訟沙汰、投獄、揚句に殺人事件まで犯し逃亡生活を送るなど、最後まで多くのトラブルを抱えた画家であった。そして病の中、奪われた作品を取り戻すためにたどり着いた町で死去したが遺体の引き取り手もなかったという。一方、その独自の造形性は、 「カラバッジョスキ」(カラバッジョ傾倒派)と言われる多くの後続の画家たちに影響を与えた。 こうしたことから、「天才と無頼漢の同居」とか「無教養の天才」とかいった彼への評価がなされる。
斬首や処刑、拷問、髑髏などは神話やキリスト教に多く出てくる絵画のモティーフであるが、特異なその性格や生涯、何よりその造形性から、彼の作品には同じモデルでも従来のそうした古典作品とは違った鬼気迫るものを感ずる。例えば彼は、純潔たる聖母マリアを描くに当たり、娼婦をモデルにしたり、死者を描くため墓を掘り起こしたり、「聖母の死」」と言う作品のため、テベレ川に浮かんだ溺死体をそのモデルしたりした。掲載の「眠るアモル」も、死んだ子供をモデルにしたと言われている。因みにアモルとは、アモリーノ、クピド、キューピッド、エロスなどと呼ばれる神話世界の「愛の神」であり、その弓矢で心臓を射られた人は恋に落ちるというエピソードで有名である。
蛇足だがこれはキリスト教世界の「エンジェル」とは本来違う。エンジェル(天使)は九つの厳格な階級とそれぞれの使命があり、概ねキリスト教図像体系では「受胎告知」の「大天使ガブリエル」のように大人の女性として表れている。蛇足ついでに言えば、この大天使ガブリエルとは、何とイスラム教と共通の天使なのだ。イスラム教では「ジブリール」となり、かのムハンマドにアラーの神の預言を口述するという大仕事をしている。これを可視化したのがかの「コーラン」ある。太古の昔の民族、宗派の境目のない宗教にロマンを感ずる。
ともかく、かくのごとく、「アモルの愛」とは「生」の象徴であり「正」のイメージ(画像)であるが、モデルたる死体はその対極にある「負」の現実である。作品上のアモルは、眠っているのであり、弓矢も折れ糸も切れているように見える。つまり本来の姿ではない。ある西洋人の美術史家は「カラバッジョのリアリズムは、生の思想によるものではなく、死の思想による世界のヴィジョンに他ならない……深く絶望的に宗教的である」と述べているが、その造形性を言い当ててるように思う。彼は生を明るい希望のあるものとして捉えることはできないのみならず、その生の因果たる「殺人」すら辞さなかった。つまり彼には「生」と「死」の明確な区別がなく、絵画とはその中間にある生と死を超越し、それらを繋げるものだった。つまり「生死一致」である。その区別のない混沌の中から生を浮だたせるためにあの強烈な明暗の対比があったとすら思える。
(つづく)