Ψ筆者作「バルビゾンの家」 ミニュアチュール 油彩
ともかくそれらは、前述した「永遠」、「絶対」、「無為」、「真実」などと呼ばれる、普遍的、本質的価値体系である。例えて言うなら我々の一生とは、宇宙に向かって一瞬開かれた小窓を持つ小さな部屋のようなものである。死ねば窓は閉じられ当人には全く関係なく宇宙はそのまま続く。 ただその窓は「現象」という深い霧に覆われている。現象に目を奪われ、その因果の評価のみに終始していたら、一生は「本質」を知ることなく終わる。だから相当の意思と努力で現象の霧を吹き払わなければならない。そうすれば窓からは満天の星のように輝く「本質」が見えるであろう。ひとたび人として生を受けた以上、そういう本質の一端でも見てみたいものである。否、一度しかない人生の意義のためにそれを見るべきである。
時空を超越する普遍的価値ある芸術も、その本質とか真実と呼べるものに他ならない。時代は変わる、だから芸術も変わると言う話があるがこれは誤り。芸術において変っているのはその「表現形式」であってメッセージの本質は変わらない。なぜなら芸術が向き合うべき人間が変わらないからである。芸術とは、「現象」から取材する場合であっても、その「本質」を抽き出し、人間の原存在に向け発信するものだ。そうでない、時代に諂い、時代に迎合し、流行りものを追い、目先の評判や利益を求めるものは、そういう形で現象の因果に終始し、結果必ず時代と伴に消え失せるものに他ならない。
2.歴史から学ぶということ
その現象と本質の関係を具体的に考察する。「歴史」というのは政治や経済、文化、生活等の現象推移の流れである。それは時代毎に、社会的存在たる人間がつくったものであり、そこで生きて行かなければならない生身の存在にとっては、余程の世捨て人でない限り無視できない。そのことは否定しない。ただ、歴史を学ぶとは、その「事実」の知識だけを習得することだけではない。その底流にある歴史が教える「真実」を読み取らなければならない。況や今日一部に見られる、歴史を国や政治の利害得失のために都合よく解釈すれば済むというものではない。
冒頭の先達が人の世の流れに看破したものとは、浮沈し、危うい現象に目を奪われるなということである。現象とは所詮≪よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。≫であり、≪盛者必衰、ひとえに風の前の散りに同じ≫なのである。それで終われば何も残らない。繰り返すが、歴史を学ぶとは、その現象の事実経過のみを知ることではない。併せてその「事実」の底流にある「真実」を知り、その「教訓を将来に向かって生かすこと」である。歴史が将来に向かって教える真実とは、具体的には戦争や独裁、人種差別、他国侵略、異民族支配等の、歴史の誤謬と罪悪を否定するということである。平和、人権尊重、民主主義、反人種差別、環境保護等はそうした努力の結果であり、「人類の叡智、進歩」とは、そうした歴史を学び、生かしたことそのものの経緯に他ならない。今日一部風潮に見られる「保守反動」とはこうしたことがまるで分っていない、歴史の進歩に逆行する(反動)愚かで皮相な、かつてこの国を亡国の淵に瀕死せしめたような罪悪に満ちたものである。(つづく)