Ψ筆者作「回廊」(未完) F30 油彩

この「日本人村」は具体的には、かの薩摩治郎八を最大パトロンとする「在仏日本美術化連盟」、福島繁太郎支援の「巴里日本美術家協会」の二つがあり、それぞれ薩摩派、福島派と呼ばれ、レオナルドフジタは薩摩派、清水は福島派に連なり、官僚や高級軍人とも縁を持ち、頻繁に日本人会を開くなど、芸術的というより世俗的社交の場であった。
確かに、筆者も今回の前の回の渡仏の時、同宿の日本人と小旅行したり、その友人となった人の紹介で在仏の日本人画家のアトリエを訪問したり、何より寂しくなかったり、短い間であったが諸々利便があった。佐伯祐三も、里見勝三によるかのヴラマンクの紹介、住居や展覧会の情報から晩年の行方不明時の捜索や病院の手配に至るまで、数多くの友人たちの世話になっており、他の画家たちも取材旅行や金銭の貸し借り等諸々助け合ったという意味ではそれらは大きな意義があったのであろう。
しかし、事実はを言えばそれらコミニュティーは、日本のそれをそっくり巴里に移したものであり、例えば、イタリアからのモデイリアニ、スペインからのピカソ、ロシアからのシャガール、東欧諸国からのキスリング、パスキン、スーチン等々同じエコールドパリの他の外国から来た画家たちが、貧困と孤独のうちに造形の道を究めようとしていたのに比し、どこか甘い、とかく群れたがる日本人気質を反映したものではなかったのか。
この辺りを岡本太郎は以下様に看破している。
「…当時の日本人画家が全くフランス文化に溶け込もうとせずに、日本人だけで固まり、フランス語も話せないくせに、パリの街角や風景、金髪の女性を描いている……」と述べ、「パリ帰りと言う肩書を持って、日本で儲けよう企む計算高い画家」と指弾している。
さて清水に戻る。筆者はかの本の表題「青春のモンパルナス」に惹かれこれを読む気になった。これは「哀愁の巴里」とか、モデイリアニを扱った映画「モンパルナスの灯」に通じる、若い芸術家の、創造と苦悩の軌跡を追ったものと思ったが全く違っていた。
清水は、帰国後「彩管報国」をし、国家褒賞に与り、団体のボスとなるという、前回「本邦の出世画家(清水は彫刻家でもあるが)の類型」で述べた、正にその典型であり、これはその若い頃の人脈や行動を追っただけの、「青春云々」の趣きや佐伯のような波乱万丈もない、その意味では面白みのないものだったが、美術史家たる著者にそれ以上のものを求めることはできないだろう。
問題は、本邦において、絵画芸術が今なおそのような集団的、村社会的枠内で収まり返っているということだが、この辺は別記事でも相当述べたし、それ以上語る気も起らないが、一言だけ言えば、絵画芸術とは本来作家個人の何たるかが問われるものである。時代のエネルギーはその「個」をだんだん奪っていく。ある作詞家が「時代は今マイナスの時代、マイナスにプラスを乗じてもマイナスにしかならない。マイナスにマイナスを乗じることで時代的プラスとなる」と言った。乗ずるという意味がよく分からないが、言わんとすること誠に同感である、形やスタイルから入る、流行りもの、受けねらい、ビックリものの「芸術・文化」は巷に溢れているが、その先行きは見えている。一方で件の情実や忖度の日本人的村社会がある。これらはマイナスにしかならないプラスだろう。
かつて造形アカデミズムは時代から否定された。しかし筆者にあっては、如何に透明で抜けるような空を描くか、海と川と湖の表面をどう描き分けるか、光の反射は、立体感はあるが重さのない雲と、その両方がある岩をどう描き分けるか、詩情は、ノスタルジーは……課題は次から次に生まれる。我が人生の意義それで十分である。