Ψ筆者作「大運河とリアルト橋」 F30 油彩

「青春のモンパルナス」という、彫刻家で画家の清水多嘉示のことを書いた本を読んでいる。この清水は佐伯祐三との関係において、彫刻家日名子実三とともにそのデスマスクをとったとかとらなかったとかいう件で一度だけ名前が出てくるが、実際は佐伯自身制作の「ライフマスク」であった。その清水や佐伯ら、夥しい数の若い芸術家が20世紀初頭前後「芸術の都パリ」をめざした。交通手段は約一か月半を要する船旅かシベリア鉄道である。日本郵船の「香取丸、白山丸、諏訪丸…」などをそういう連中が利用したという記録がある。マルセイユまでパリから送り迎えに行ったとか、入れ違いで港の向いの船で誰それが帰ったとか着いていたとか、アインシュタインが乗っていたとか、いろいろエピソードが残っている。今の12時間程度の時間を考えれば、大変な旅程であった。皮肉にも、さほど時を経ず、飛行機が広く活用されることとなるが、それは「戦闘機」であった。
ともかく、多くの日本人芸術家が草木も靡くようにパリを目指した。洋画について言えば、明治期にその情報が流入したばかりで。未だその技法の習得の相努める頃で、ルーブル詣では必須のことのようにされていたが、学ぶという真摯な面も当然あったろうが、「洋行帰りの箔をつける」ということも大きな現実的目的であったことは否めない。
その前後、本邦で画家になるという道にはパターンがあった。まず、私画塾、川端や太平洋画学校等でデッサンを学び、美校や帝国美校(現ムサビ)など学校に行き、件の洋行をし、できれば現地のビックネームに師事し、帰国後帝展、文展、二科等団体展に入選する。受賞ならなお良い。信じ難いが、各団体の応募数や入選率は今の比ではない。文展や二科入選など近年まで新聞記事にすらなった時代である。
その過程で必要となってくるのが、徒弟関係や人脈である。団体内で地歩を築き、団体幹部となり、国家褒賞を得、件の「彩管報国」などで国家に貢献する…現在「なんでも鑑定団」風の評価を得、年鑑類で活字の大きなお歴々はほとんどが、そうした本邦特有の権威主義と因習に支えられ成功を収めたものである。言うまでもなく、この最大の弊害は、分かりやすく手っ取り早い価値基準により、芸術の本質や真の価値が見落とされるということにあるが、今に生きるその「伝統」は、その意味で最早救い難い「信仰」とすら言える。
ともかく、そうしたことからパリでもそれを反映したいくつかの「日本人村」を形成した。
(つづく)