Ψ筆者作「フィレンツェ」 M40 油彩

ワイドな風景と言えば、山や平野や海に空を大きくとるという、17世紀風景画や印象派の「低地平構図」があるが、多くはそれらのテーマは「自然」であり、街全体を描いた絵は美術史上余り多くない。筆者が先ずそれを思い浮かべるのはヴェネツィアを描いたカナレットと現代のハイパーリアリズムのアントニオ・ロペス・ガルシアである。
前者は窓の一つから壁や柱の装飾まで、定規を使って仔細に描写しているが、そのせいで建物の線は固く冷たい。夥しい人物や船類を描くことで建築のパースのような味気無さからは逃れているが、ために情景画、風俗画の趣きが強い。
後者は正にカラ―写真を貼り付けたよう、ひとたび「視覚の驚き」を通過すると、「だから何だっていうの?」という、他のスーパー描写主義絵画と同じような感慨しか残らない。それに街は絵画的効果を考えて設計されていない反面、描写主義の宿命、道路や近くの建物を無駄に、異常に大きく描かざるを得ないなど構成上のリスクは大きい。
筆者にあっても、ワイドな景色の中で、既出拙作「プロヴァンスの鷲の巣村」のような自然があまりない、街だけのものををどう描くかは、常に付き纏う難しい問題である。当作は試行錯誤を強いられる難物であった。特に赤い屋根瓦の色彩と表現は、難物中の難物と言える。
前者は窓の一つから壁や柱の装飾まで、定規を使って仔細に描写しているが、そのせいで建物の線は固く冷たい。夥しい人物や船類を描くことで建築のパースのような味気無さからは逃れているが、ために情景画、風俗画の趣きが強い。
後者は正にカラ―写真を貼り付けたよう、ひとたび「視覚の驚き」を通過すると、「だから何だっていうの?」という、他のスーパー描写主義絵画と同じような感慨しか残らない。それに街は絵画的効果を考えて設計されていない反面、描写主義の宿命、道路や近くの建物を無駄に、異常に大きく描かざるを得ないなど構成上のリスクは大きい。
筆者にあっても、ワイドな景色の中で、既出拙作「プロヴァンスの鷲の巣村」のような自然があまりない、街だけのものををどう描くかは、常に付き纏う難しい問題である。当作は試行錯誤を強いられる難物であった。特に赤い屋根瓦の色彩と表現は、難物中の難物と言える。