Ψ筆者作「田園・イルドフランス」 F8 油彩
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青木繁の場合も現実との関係は悲劇的である。没落氏族の長男に生まれ、プライド高く傲慢で人間社会への適応力に欠ける。画家を天職と決し、藤村の「若菜集」を懐に青雲の志を持って上京するが、長男に「家」への責任を押し付ける日本の家族制度にも足を引っ張られ、貧困の中家族とも衝突する。福田たねとの間に、後年の福田蘭童たる幸彦をもうけるが、もとより生活力あるわけではなく、背水の陣たる「わだつみのいろこのみや」を抱え、身を寄せていた、たねの実家群馬県水橋村の五行川でたね親子と別れるが、これが永久の別れとなってしまう。
「わだつみ…」は勧業博覧会審査で不本意な「三等末席」となる。因みに当時の一等とは余程のものでないと与えられず、三等は並みで、末席は並みの中の下級と言う程度である。プライド高い青木は落胆し、激怒し、雑誌「方寸」でボロクソに画壇のボスたちをこき下ろす。折しも、坂本繁二郎ら太平洋画会有志も、「芸術の精髄を汚す」として、有力団体間の情実やヒエラルキー、世俗的運営を批判し、褒賞返還運動を起こしており、現下の本邦美術界の胡散臭さは当時に源流があるようだ。
その後青木は父危篤の報を受け九州へ帰る。文展等に出品しても落選が続く。中央画壇に戻れぬまま、失意の中で九州各地を放浪し、当代の若い画家たちが続々目指したパリの地を踏むことなく、ついには結核を得て三十に満たない生涯を終える。
青木の「ライバル」坂本繁二郎は、その後現実に卒なく向き合い、ついには能面などの連作による「幽玄の巨匠」として本邦美術界のトップを極めるような出世を果たすが、青木にはそのような「才能」はなかった。因みにその能面等へのイマジネーションを抱いたのは青木の方がはるかに先、坂本は青木のそのデッサンを長く「秘匿」していたのは事実である。
青木は文学にも傾倒し、芸術論も語る思想家でもあった。「仮象の創造」と言う著作もある。彼は、森羅万象、人間、芸術等、それらの本質はどのようなものか、それはどうあるべきか、故にかくす為すべし、それらは生来の強烈な個性と相俟って、いっそう強固なものとなる。それは易々と現実と妥協できるものではなかったのである。
勢い現実との溝や周辺との軋轢も深まり、貧困や病が追い打ちをかけ、発表の受け皿もなく、元々既成神話に題材を求めていたようなそのイマジネーションは急速にその輝きを失い、作品は見る影なくなる。
「悪人」に成り切れない半端な人格ではあるが、金がないというなら周辺からふんだくってでもパリを目指すべきだった。そうすれば新たなイマジネーションが生まれたかもしれない。たねと離別後も、たねらしき女性をモデルにした絵も描いている。青木のたねへの思慕のイマジネーションだけが最後まで残っていたようだ。
後に「爺さんは悔しかったんだろう」という子孫の言葉もあるが、以下の辞世の句から、青木の己が人生への思いが読み取れる。
小生は彼の山のさみしき頂きより思出多き筑紫平野を眺めて、此世の怨恨と憤懣と呪詛とを捨てて静かに永遠の平安なる眠りに就く可く候。   
 
(つづく