
Ψ筆者作「友達のいる窓辺」 F20 油彩(再掲)
先の記事登場の猫は。茶虎の当然雌猫で、名前を考えている間不便なので、当時もっともポピュラーな「モモ」と名付けた。活発で自己主張の強い、存在感の強い中心的な猫で、16歳だったので特に早死にということはなかったが、その喪失感は3年経った今も尾を引いている。
冬になると弟分の猫と一緒にストーブの前に座り、「着けろ」と言う。ごはんの時の催促が、はっきりと「ゴハン!」と聞こえる時もあり、これは主治医からも「それはよく聞く」との認知を得た。
拙宅にはもう「ひとり」別の茶虎がいた。まだ子猫の時、その猫はある日母親と一緒に拙宅付近に現れた。付近と言うのは、道路を挟んだ前の家にも何となく居ついていたからである。結局親子とも拙宅の子となった。名前は前の家の人が「茶々」(淀君の幼名と同じくするため漢字に拘る)と名付け、母親の方は岳父が何も考えず「ミー」と名付けた。因みに他は雄で、ホル、レオナルド、ルルドと言う。全盛期は「6人」の猫屋敷となった。
母親は銀杏(ぎんなん)型の目をした、上品で鼻筋通った美人で茶白、茶々は胸の一部だけが白い、ほとんど茶トラだった。この親子が一番早く、ホル以下は後から来た猫たちである。茶々は子猫の時、よく両家からハムやチーズをもらって食べ、特に雪印スライスチーズが好きだった。最初は「もっと」と催促するが、飽きてくるとプイとどこかへ行ってしまう。
母親といつも一緒に行動し、じゃれ合ったり木登りや近所の家の屋根に上ったりし、本当に可愛がっているようだった。ある夏の夕方、蝉でもとろうというのか、付近の家の木に垂直に木登りし、それを我が子を見守る人間の母親のようにスフィンクス型で見守っていたミーが、通りがかった筆者と目が合った時「あの子を何とかして!」とでも言うように、鳴きながら小走りで走り寄ってきたこともある。
ある時、母親が小鳥を捉まえ、娘におもちゃでも与える様に口移しで渡そうとしていたが、これは流石に可哀想なので筆者が介入し逃がしてやったこともある。葉っぱ一枚あれば、それを両手で持って上に放り上げ、それにじゃれたり、口から長いものを出して走っていたので、何かと思って近づいたら、それが蜥蜴で、こっちが悲鳴を上げたこともある。
またある日、じっと他家の庭の凹みを長時間見つめていたことがある。何かネズミでも潜んでいるのかと思ったが、急に背中の毛がサーッっと立った。「総毛立つ」とは本当のことだったのである。他家の庭でもあり、結局その穴に何がいたかは不明だった。
とにかく茶々は、毎日母親の庇護の下、天真爛漫に幸せな日々を過ごした。
ミーは拙宅、茶々は前の家の人が避妊手術をしたが、ややそれが早く、ホルモンか何かの影響か、それとも先天的なものなのか、とにかく茶々は子猫の様に小柄だった。その間幾度となく心配な病気をしたが、その都度それを克服した。
母親といつも一緒に行動して成長したが、それから幾春秋、ミーは17歳で腎不全で死んだが、そのショックもさほど見せず、その後も元気だった。高齢になってからは2週間に一回程度、主治医からメンテナンスの注射を受けたが、最晩年は動きも鈍くなり、目も不自由になった。それでも食欲はあり、動き回り、触れると必ず「グニュグニュ」と言って反応し、寝たきりになるということにはならなかった。チビ猫だったが何度も危機を乗り越えた本当に強い子だった。
2017年7月13日、午前12時59分、老衰と言うことになろうが、実に23歳の天寿を全うした。人間なら100歳近いだろう。
いつもみんなに「長生きしろよ」と言っているが、茶々には「長生きしたね!」と言ってやることができた。
で、長々と他人にはどうでもよいような話をしたが、筆者の人生で何か一つのことを悔いなく全うしたというのは、これくらいしか思いつかないということ、表示の絵画二点は愛猫への諸々の思いを可視化したものということ、そのための当拙文となった。
Ψ筆者作「一番星の頃」 F10 油彩
