Ψ筆者作「渡れない橋」 F4 油彩

《 文化・芸術一般について、ここ数十年来で顕著になったことがある。これは筆者の独断ではなく、然るべき方面では指摘されていることである。
かつて由緒ある芸術であった「詩」は既に市民社会の中には存在していないと言ってよい。「詩人」というパーソナリティーが存在しなくなった、ごく限られた専門家だけの小さな領域に自ら閉じこもった、その「しんねりむっつり」した波長が時代のリズムから置き去りにされた等諸々考えられる。
同じ文学たる小説の世界では、かつては「文士」と呼ばれた、アナーキ―で、時にデカダンやニヒルであった「個」が、自らの身を削るようにして、人間や人生を照らし出したものだが、今や「何とか賞作家」などという冠詞付きで紹介されることで総てが語られるような卑俗な社会性に取り込まれてしまったかの感があり、「文士」既に無く、文学も「かつてそういう芸術があった」と言われるようになるかもしれない。
映画・演劇等エンターテーメントは、かつては「総合芸術」と言われ、制作サイドも役者も、それぞれの道での厳しい修業を積んだ、「プロ中のプロ」が創ったものであったが、今はもう芸術ではないといってよい。個性派とか性格俳優とか呼ばれる役者既に無く、素人が作り素人が演じ、ほとんど興業的成功と「話題性」がその価値を決めるというポピュリズムの支配下にある。「映画が芸術であった頃」という表題の本を目にしたが、その文言からは関係者の嘆きを感じ取る。
過日、「演歌」の廃れに危機感を感じてある動きがあったと聞いたが、マスメディアを介し送られてくる「音楽エンターテーメント」はいっそう顕著である。例えば、19〇〇年、昭和〇年にはこういうヒット曲があったと紹介する回顧的歌番組がある。一定年齢に達した者にとっても、思い出の歌や昔の愛唱歌の一つや二つ誰にでもあった。そして、それを歌った歌手個人も思い出される。ところが将来のある時期、懐かしく思い出したりする歌や歌手が現在あるだろうか?筆者は思い浮かばない。その世界は既にそういう世界ではなくなっているからである。
総て「個」が衰退乃至消滅し、文化が小市民化、集団化、ミーハー化していくという姿である。これらは時代のせいばかりとは言えない、創り手、送り手側自身の意識の問題もある。時代へすり寄り、芸術文化の本質を蔑ろにした結果、やがて自らの首を絞めるような結果につながったと言わざるを得ない。》
(つづく)