Ψ筆者作「サント・ヴィクトワール(セザンヌ追想)」 F8 油彩

《筆者の小学校、中学校は東京のど真中にあった。かの時代、在校生中1~2人、他の学校にも必ずといってよいほど同様に、今日で言う「ハーフ」が居た。それは日本人母とアメリカ人父というのがほとんどだった。そしてその父親というのは多くが米軍関係者だったのである。念の為に言っておくが、これらが総てそうだと言っているのではないし、中には真面目に家庭経営に務めたカップルがいたかもしれない。しかし事実を言えば、多くの米兵は駐留が終わると事後の処置を放置したまま帰国、残された母子の差別や人知れない苦労は、多く映画やドラマになったことはその事実を伝えている。 因みにかの沢田美喜の「エリザベスサンダース・ホーム」は、そうした混血孤児のための施設である。
戦後それほど経っていない頃、米兵を相手にする一部女性をパ○パ○、外国人との間に生まれた子をア○ノ○(伏字にしたのは今日では差別用語として使用を禁止されているからである)と言って差別視する風潮があった。しかしこれは表向きは、占領軍が占領した国の婦女を暴力的、強制的にそうするというものではない。一定の軍管理の下であったし、支払われるべき対価は支払われただろう。そうでなければ占領軍の「正義」の大義は立たないからである。しかし、今日米軍では、派遣先の国での「買春」は禁止されている。
これは、払うべきものは払ったから文句あるまいで通る話だろうか!?戦勝国等の進駐軍が、占領・支配という威圧的アドヴァンテージを背景に、敗戦国の婦女を性処理の対象にしたのは事実であり、これは自国の婦女の尊厳、人格を進駐軍に「蹂躙」されたという国家的屈辱の事実と捉えるべきでないのか!?これは金を払ったとか、女がアマかプロなどという話ではない。
筆者の母親も若い頃進駐軍の基地があった某市に住んでいたが、米軍のジープを見るたびに若い女性は身の危険を感じ一斉に姿を隠したそうである。こういう状況は現下の沖縄での米兵による婦女暴行事件を見れば誠にリアリティーのある話であろう。因みに「若年性ウルトラ保守風情」の何某が、米軍が沖縄の「風俗」を利用することを進言して、米軍司令官だかに呆れられたそうだが、「日米軍事同盟」とは米軍の「下(しも)の世話」まで心配してやるものなのか、こういう奴をそれこそ「売国奴」というのではないのか!
しかし、その国家的屈辱について、本邦政府はアメリカに抗議や賠償請求をしてはいない。それは敗戦国であると同時に、その後のアメリカによってもたらされた「自由、民主主義、繁栄、安全保障」等の恩恵により、そうする要を認めなかったからである。つまり、本来アイデンティティとか尊厳とか言われる国家・国民のメンタリティーの問題が「モノカネ」により他愛なく劣後させられたのである。なにしろ、前記恩恵と引換えに原爆投下というこの上ない「人道の罪」にすら黙ってしまったのだから。
現下の「従軍慰安婦」の問題はこの逆と言える。「朝鮮総督府」前後から、威圧的アドヴァンテージを有していたのは我が日本である。「金を払ったからいいだろう」、「インフラや諸制度を整備してやったから文句いうな」というのは、先のアメリカによって与えられた「物質的恩恵」による「償還」と同じ論理である。…中略…
それはこの「モノカネ」の論理を一歩も出るものでなない。別件だが、「最後は金目でしょう!」と言った大臣がいたが、思わずそのホンネが出たということだろう。何でもモノカネで解決出来ると思うのは「賎民根性」以外の何ものでもない。否、「モノカネ」では解決がつかないものにこそ重要な事の本質がある。国家・国民のメンタリティーがそれである。
強制的に連行してやることやって金を払わない、これは「強姦」である。軍管理下、慰安所を設けて兵隊が列を作り、金も払う、これは「慰安婦制度」である。「ハウマッチ?」と尋ね合意して金を払う、これは「買春」である。その恥と罪においてこれらにどれほどの大差がある!この、「五十歩百歩」(俺は50歩しか逃げないがあいつは100歩逃げた!)という言葉は、「逃げたことに変わりわない」という恥と罪の本質を忘れ、滑稽な現象論にしか思い及ばないことの例話である。慰安婦問題を、この矮小なレベルでしか捉えられないのが、かの陣営の限界である。
息子は「最後は金目でしょ!」と言ったがその親は、「平和主義」とか「脱原発」をセンチメンタリズムと言った。この「センチメンタリズム」とか「自虐史観」というのは、かの陣営にとって「オチ」に使う売国、国賊、亡国等のヘイトスピーチ、レッテル貼りともども誠に便利な言葉のようだ。彼らにとっては、先の国家・国民のアイデンティティーとか尊厳とかいうメンタルなものもそのセンチメンタリズムに他ならない。
では、「神国日本」、「八紘一宇」、「愛国心」、「大和男(おのこ)」、「武士道」、「鬼畜米英」、「一億玉砕」等の「日本精神論」はセンチメンタリズムではないのか?しかもそれは一朝にして「親米」に転向した実体のないセンチメンタリズムであろう。これらにより亡国の淵に瀕死しせしめたのは何処のどいつか!
政治家、自衛隊幹部、扇動マスコミ・御用文化人等は万一の時自らは死なない。死ぬのは誰か!?第一線に立つ現場の自衛官である。自ら死ぬ心配がなければ威勢の良い精神論はなんぼでも言えるっつーの!》
(つづく)