Ψ筆者作「サンタンジェロ城とテヴェレ川」 F30 油彩
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 今般長期に渡る渡欧取材で得たモティーフばかりの作品を集めた書庫を設けた。当初は一生分の取材をするつもりで息んで臨んだ旅行だったが、諸々の事情もあり全行程を予定通り全うするに至らず、かつ、作品見込み数と制作ペースに比して、思いの他早くモティーフが尽きてくるのではないかの予感もあり、早くもこれは今ひとたびかの地を訪れる要を感じている次第。ともかく、いつ死んでも悔いないよう、折に触れ作品や文章をまとめて表示しておこうと思う昨今である。当稿は、上記作品表示に併せ、既に当ブログにおいて何度か述べたことを含め、筆者の制作の動機づけや思想の様なものも改めてまとめたものである。
1、我思う、故に我在り
 「方丈記」
《ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。…》
 「平家物語」
《祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはすおごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。…》
 遠い昔の本邦人もこのような真理を達観していたことに改めて感銘を受ける。人間や人の世は移ろいやすく、虚しく儚い。人の世は所詮幻、この世の存在は一瞬のかりそめの姿…その通り!ただそれだけで終わってしまえば、身も蓋もなく、本来読み取るべき何某かのメッセージ性も見逃すことになろう。ではどうすればよいか、これを考えることについて、もう一つの思想がある。
 かの有名なデカルトの、「われ思う、故にわれ在り」(Cogito ergo sum(ラテン語),Je pense donc je suis(仏語))の意味を解釈すれば、「世界は疑いに満ちている。我もまた然り、しかし、そのように疑うという行為自体は、疑い様のない事実であり、その限りにおいて、疑うという行為の主体たる自我の存在も疑い様のないものとなる…」ということか。
 この二つの思想が、洋の東西を超えて一つの真理に結びついたと考えれば、ある種の解答が見いだせそうな気がする。
哲学や芸術や宗教などは、人間や森羅万象についての真理追究において、その厳密な定義や解釈の違いはあるものの、汎く「二元論」を採用している。例えば、現象、表象、有為転変、諸行無常、相対、観念等可変的概念に、本質、真実、無為、永劫不変、絶対、原理などという不変的概念を対比させ、人間や森羅万象を無理に玉石混淆の一元論で語るのではなく、ひとたびはその二元論に立ち、それからその「玉」だけを抽出しようとする考え方である。
(つづく)