かの島崎藤村は、≪「否が応でも私たちは自らの生活方法をその土地に適応させるために努めなければならない…世界を旅するのは自分を見つけに行くようなものだ…一刻も早く家に帰り、樹蔭のテントのような明るく楽しい屋根の下で、足でも投げ出し一坪の土地、一株の植木なりともそれを自分のものとして楽しみたい」≫と語る。
 因みに藤村は姪とのスキャンダルから逃れるように渡仏し、第一大戦の混乱を避けるため、リモージュという更なるフランスの奥地に追いやられようなことになったが、帰国後「夜明け前」等数々の代表作を生む。イメージ 1
 ※門と橋桁だけの渡れない橋(アルル)
その詩「パリ」や「根付けの国」であれほど日本の因習、日本人の価値観を憎悪した高村光太郎も≪「独りだ。僕は何の為に巴里にいるのだろう」と孤独の心情を吐露し、自らの資質はあくまで日本人であり、西洋人の精神は持てないと気づかされる。≫「放浪記」で売れっ子作家となった林芙美子もあこがれのパリの地を踏むが、≪その暗鬱な空で暫くは寝てばかり、揚句「やりきれない」、「早く帰りたい」などの泣き言を言う。≫また横光利一は言葉も通じない食い物も合わないことなどで神経衰弱気味となる。
 これに対し岡本太郎は、≪当時の画家が全くフランス文化に溶け込もうとせずに、日本人だけで固まり、フランス語もはなせないくせにパリの街頭や風景、金髪の女性を描いていることに疑問を投げかけている。太郎は≪パリ帰り≫という肩書を持って、日本で儲けようとたくらむ計算高い画家に意味を見いだせなかった。≫
 これは当時多く見られた、在仏日本人画家の実体を突いた言葉であると同時に、パリで屈強に生きるための一方の思想を語っているかのようだ。
  (以上≪≫内出典  先人に学ぶ「フランスに生きた日本人」一部編集)イメージ 2
※ロワール川の橋と街 
 それらの言葉から感じるのは、一様に≪望郷≫の思いである。しかしそれは政治や経済や文化に概念される「日本」と言う国家ではなく、そうしたものを超越した、自分たちが日本にいたころに纏わり付いていた、好むと好まざるものを含めた、微に入り細に渡っての「日常性への懐かしさ」であろう。そういう時には、国家下の社会的存在としての自我ではなく、一個の人間としての原存在が露呈するのである。筆者も我が家の猫達に会いたくてしょうがなかった。(^^)
 いずれにしろ、長期の滞在とは心身に何某かの異常が発生することをあらかじめ計算しておくべきであり、問題はそうした異常が起こった時、本来の旅行の目的や使命を達成して行けるだけの相応の精神力が必要だということだろう。それでも駄目なときは無理をせず、勇気をもって早めに帰国すべきであるということは、先の「パリ症候群」とか留学生などに一部見られる強度の神経衰弱等に対する専門家のアドヴァイスにも述べられている。
 さて、先の先達の時代は言うに及ばず、つい十数年前から世界は大きく変貌してきた。それはINの普及に伴う情報のグローバル化と様々な人種の流入による、「無国境・無国籍化」である。
ベネッセ橋とローヌ川イメージ 3
 これは昨今全世界的に問題となっている人種の問題に関わる。筆者が滞在したパリ東駅の周辺は、同北駅共々ガイドブックなどでは治安の悪いところとされている。その理由は、黒人や北アフリカや西アジアなどのアラブ系住民が多く所在しているからということらしい。確かに彼らは見た目は怖いし、事実テロや犯罪に走ったりする者もいる。地下鉄などに乗ると、彼らの集団から、鋭い目で見られると少々怖い気がする。しかし事実を言えば、筆者はその東駅のホテルに40日間滞在していたが、危ない目には一度も遭わなかった。ホテルのクリーニングをしてくれるのはバングラディシュ出身の青年である。最初少量のコインをチップのつもりで枕元に置いていたが、ある日「Thank you so much!」のメモが残っていた。そのうちチップそのものを受け取らなくなっていた。毎日では悪いと思ったのだろう。お互い下手な英語で話す機会があったが、ユーモアある気の良い男だった。
 到着直後道に迷ってしまい。北駅と東駅が至近距離であったにも拘らず、逆の方へ行ってしまい、仕方なく拾ったタクシ―の運転手がアフリカ、セネガル出身の黒人で、陽気で話好きで親切な男だった。
(つづく)