※佐伯はサロン・ドートンヌに「コルドヌリ」と言う作品を出品して入選している。コルドヌリとは「靴屋」のことであり、同じ看板を見つけた。

明治期以来、本邦の美術界は、日本的因習や権威主義、門閥学閥等「社会性」の中に置かれたり、「洋行帰り」のステータスを求めてのものであったり、現地においても「日本人社会」の枠内にあったり等の側面は、筆者には本来の芸術の有り方から必ずしも好ましいとは思ってないが、ルーブル等で生の芸術の洗礼を受けることは、芸術を志す者にとっては通過しなければならない一つの条件として捉えていたのは事実のように思える。
佐伯も当初は前述したような日本的土壌に包まれた観はあったが、第一次渡仏後の栄誉や将来の明るい見通しを顧みず、結果的にその命を賭した、絵画的価値希求の為の第二次渡仏を慣行したことにその創造者としての純粋さを見、筆者の今回の渡仏でも改めてのその軌跡の一端に触れることの意義を感じた次第。
※佐伯一家は旧リュードヴァンブ5番地に住んでいたが、今日そこはrue raymondo lossereand 5番地となっている。「5番地」の表示だけが変わっていない。↓

佐伯に関してかねがね以下のような疑問を感じていた。
1何故彼はシテ島やノートルダムやモンマルトル等の名勝地を描かなかったのか
2何故パリ市内で描いた場所が概ねモンパルナス周辺に集中しているのか
3狭い歩道、人通りなどをどう避けてイーゼルを立てたのか
4あれだけの作品の「手製下地」を狭いホテルでどうやって何枚も作れたのか
5その特殊な材料(白亜、膠、麻布他)をどうやって手にいれたのか
などである。
1については、佐伯の造形資質に尽きる。佐伯は名もない街角、店先、広告、カフェレストラン等街のディテールに視点を据えた。この造形性こそが佐伯独自のものであり、当時の画壇に新鮮な驚きを与えた。2については興味深いデータがある。先ず佐伯より先にパリに在った先輩や画家たちの多くはセーヌ左岸、モンパルナスより南側の郊外に向かっての地域に居を構えていた。また、島崎藤村、林芙美子、芹澤光治朗、河上肇、横光利一などの文学者、高村光太郎、藤田嗣治、岡本太郎なども軒並みモンパルナス界隈に住んでいた。
これは、当時日本人が居留する場所として、モンパルナス近辺が特定される情報なりルートなりがあったということだろうが、何か東京の「下落合」の文化人村や「池袋モンパルナス」を想起させる、本邦芸術家たちの群集志向も感じさせる。3については、筆者も佐伯がよく描いたリュー・ド・シャトー界隈を歩いてみたが、往時と余り変わっていない様子であり、だとすると歩道は狭く、人・車の往来も結構ある。佐伯は現場主義なのでその場所に必ずイーゼルを立てていたはずなので、描くのは相当大変だったと想像する。4,5については答えとなるべき資料を現在持ち合わせていないので不明である。

ともかく、当時のことは佐伯関係のいろいろな文献に書かれており、いろいろ想像させるものがあるが、何と言っても今に残る当時の建物や通りを歩けば、往時の登場人物たちが織り成したドラマやざわめき、「息づかい」すら感じさせるものがあり感慨深いものがあった。

※昏迷の中佐伯は監視の友人たちの目を盗んでヴァンブのホテルを抜け出す。途中自殺未遂もあり、広大なクラマールの森を彷徨う。発見されたのは遠く離れたブローニュ警察の管轄地区だった。右はそのクラマールの森の小さな出入り口。