Ψ筆者作「森」 F30 油彩
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 ところでこれは繰り返し述べた筆者の持論である。森羅万象や人間について、一方に「永劫不変」「永遠」「絶対」「無為」などの「変わらないもの」という概念がある。もう一方に「諸行無常」「有為転変」等の「変わるもの」という概念がある。これらはそれ自体は矛盾する概念であるが、森羅万象、人間を「現象」と「本質」の二元論で捉えればこれは解決する。現象とは国内外の政治・経済から 家族を最終単位とする社会的存在としての人間にまで至る概念である。本質とは、宇宙の原理から人間の原存在に至るまでの「変わらない真実」に係るシビアな概念である。
 「真・善・美」などの古代より希求されてきた「価値」は当然後者に属する。宗教の教義が今も2000年前と変わらないのは、人間の本質は変わらないものとする故のものである。「ビックバン」や「進化論」は科学技術が「原理」に出遭ったという意味で画期的であるが、科学技術それ自体は現象の中で変化(進歩)する。美術史とはその変化の歴史のようだが、実はその変化は形式・方法論の変化に過ぎず、芸術としての意義は変わらない。なぜならこれも、それが向き合う人間とは原存在としてのそれであり、テーマも現象の中から抽出する真実であるからである。故に優れた芸術は時代や国を超えて生き続ける。
 しかしそうは言っても、生身の人間としては現象の中で生きていかなくてはならない。問題は、その「現象」とは凡そ「悪・偽・醜」の「反価値」を伴うものであるということ、それがいかに移ろい易く、いい加減であり、虚しいものであるということは、「方丈記」や「平家物語」に遡るまでもなく、人生の中でしばしば実感されることであろう。したがって、一度しかない人生を、その現象に翻弄され、壟断され、あらぬ方向に誘導され、無駄に送ることを拒むなら、常に現象の底流にあることの本質を探る努力をしなければならない。
「われ思う故にわれ在り」とは、「現象の中で不安定な存在である人間も、思惟ある限りその行為の事実により存在できる」ということである。

 現象のいい加減さ虚しさ、それに翻弄されることの愚、それは政治、経済、「文化」等様々から感じられる。
 先の戦時、その国策のため日本及び日本人精神論が声高に叫ばれた。曰く「八紘一宇」「鬼畜米英」「一億玉砕」…これに反対するものは「非国民」「国賊」のレッテルを貼られ有形無形の制裁が科されたのである。その結果、内外300余万の戦争犠牲者を出した。ところがひとたび降伏文書に署名するや一朝にして、「アメリカ様様、永遠のパートナー」となり、世界に抜きんでる親米追従の国となる。
 一体あのスローガンや精神論は何だったのか、何のために300万は死んだのか、この、史上稀な壮大な方針転換について、実は政治家からも国民からもはっきりとした総括はなされていない。曖昧なままなのである。
 昨今右翼政治家、歴史修正主義者、御用マスコミ、提灯持ち文化人、これに扇動されるネトウヨ等有象無象は、背景が左様変化しているにも拘らず、「愛国心」とか前述した日本精神論とかの威勢のいいスローガンやこれに反対する者への昔懐かしい「売国奴」等のレッテル貼り等言葉だけは引き継いでいる。正に知恵足らず、頭の構造を疑う。これほどのご都合主義はない。
 彼らは、政治、経済、文化、生活、頭のてっぺんからケツの穴までアメリカに占領されているという事実や原爆投下等の無差別大量殺戮には何も言わない。アメリカ流モノカネ主義に頭を撫でられ骨抜きにされているからである。強いものには何も言えない、長いものには巻かれろ、これはニセ愛国者以外の何ものでもない。国家・民族の独立、尊厳を言うならアメリカにも言うべきだろう!
 大手御用マスコミの「嫌中憎韓」の出版物は、最早真っ当な批判を超えた胸の悪くなるようなレイシズムである。慰安婦問題は、外国の威圧的軍隊が占領地の婦女の人格・尊厳を蹂躙したという本質を捉えるべきで、「パンパン」、「アイノコ」の偏見、差別に苦しんだ日本人女性もその被害者に他ならない。これを金を払った、モノを与えた、即ち強姦か和姦かという矮小な問題にすり替えるのは、これはモノカネ主義者の賤しさ以外の何ものでもない。歴史修正主義者の「インフラを整備してやった、モノカネを与えた」から文句言うなと言うのも同様のものである。
  (つづく)