Ψ筆者作「晴れた朝」 SM 油彩

人間でも自然でも、具体的モティーフが存在し、それを描く場合、絵画的価値に大きく関わるのは、それをどう見るか、どう感じるかである。その見方、感じ方、表現の仕方、その造形性が個性であり、創造の自由とは、それらの自由に他ならない。勿論絵画は描写的なものばかりではないし、生来の才能とか資質とかいう問題もある。
西洋画の芸術性は懐深く、絵画の造形性、表現性の可能性は限りない。しかしその総てが目指す共通の命題は、「絵画的価値の追求」である。技術とはその絵画的価値により近づけるための方法論である。邪道や無価値、無知、無能、怠惰の自由などまで保証した自由の体系などどこにもないのである。これは観念論ではない。
実際のモティーフを見ながら絵を描くという、当たり前のことをしている画家ならば誰でも経験していることだろう。描くことのモティベーションをそそる対象に通う心の動きは手の動きに連動し、イマジネーションを掻き立て、生きたフォルムやタッチとしてキャンバスに反映される。これを風景画で例えるなら以下となる。
≪ 自然の美しさ、生命感、大らかさ、重厚さ、瑞々しさ、詩情、静謐さ、寂寥感、光の輝き、陰影、冷涼感、荒々しさ、季節感、時間的概念、温度、湿度、生活感、これらに投影される画家の資質や嗜好、思想、情緒性、ノスタルジー、回想…≫
これらが一片の紙焼き写真、デジタル画像から感じられる筈がない。総て対象そのものとその環境、それに通い合う感受性や美意識の中にしか存在しないのだ。
正に限りないテーマがある。一般人はそれらを感じるだけでも自然に接する意義があるが、画家はこれらテーマを絵画的価値に結びつけて初めて話が始まる。これに成功しなければ上記テーマはくすぶったままとなろう。
そのため画家は以下の表現に努めなければならない。
≪遠近感、広がり、奥行き、森や木立や雲の質感、その重さ軽さ、空の高さ、その透明感、空気感、水の質感、その透明感、光の処理、色彩、壁や石の硬質感等…≫
先のテーマはこれらの表現の如何に係る。これらが半端であったり不自然であったりしては風景画の目的は達成されない。そのため修練すべきが≪構成、構図、フォルム、色彩、トーン(調子)、ヴァルール、立体感、質感、量感、実在感、マティエール等の純造形要素、そしてそのベースとしての「素材論」、その素材をこなすための、あるいは効果的な展開のための「技術論」…≫ということになる
古典派系風景画もバルビゾン派も印象派もフォーヴも、セザンヌも、ゴッホも、ユトリロも、佐伯祐三も、凡そ絵画史に残るものでそれらに破たんをきたしたものはない。絵画はバランスの芸術である。風景画に限らず、成功した絵画の底流にはこのバランスがある。バランスとは広義の造形感覚のことであり、一般的にはその造形感覚は技術的修練を経てこそ具現化できる。
したがって、その修練が出来てない、つまり、造形の基礎が出来ていない者は「写真見て描く」ことすらできない。「写真に描かされる」からである。写真を一生懸命追うが、近視眼的引き写しのあまり、全体構造はヨレヨレ。空はベタッと貼り付き、山は量感なく屏風のように薄く、奥行も広がりもなく、手前のどうでもよいような所が無駄に大きく、ディテールだけが説明的にチマチマし、繋がりがないので、どこがどうなっているかも分からない。一体何に感動し何が描きたいのかサッパリわからない。これでは描かれる自然の方が気の毒というものである。
例えば、描きたくなるような美しい並木道や街並みに出遭った時、俄かに描くことが出来ない時、写真を撮って後からそれを絵にしようとすることはよくある。しかし家に帰ってそれを見れば、少しも美しくなく、道や電柱や木立など、近景のオブジェクトが無駄に大きなスペースを占め、パースペクティヴは判然としない黒っぽい塊のまま遠方へ他愛なく退いているだけという光景にがっかりするという経験は誰にもあるだろう。また陰影も極端で、暗い部分はどうなっているか分かりさえしない。これらは、カメラは現象の事実を、丸いレンズで機械的に捉えているだけで、画家の造形感覚で捉えていないということの分かりやすい例である。
(つづく)