Ψ筆者作「昼寝」 F8 平滑処理漆喰にフレスコブオノ

イタリア、ナポリ湾を臨む古代都市ポンペイは紀元79年、ベスビオス火山の噴火により埋没してしまう。その本格的発掘調査が始まったのが1748年と言うから、実に1700余年の間、その数多の文化財が眠っていたことになる。それをルネッサンス期から数えると1500年前ということになるが、改めて1500年と言う気の遠くなるような期間その造形性が眠っていたということに「負の奇跡」のようなものを感じる。というのは、ポンペイの壁画はフレスコであるが、それはルネッサンス期のそれと比べたら、色彩、堅牢さ、画面の輝きにおいて遥かにそれを凌ぐと言う評価があり、そうだとしらそれはジョット、シモーネ・マルティーニ、マサッチオ、デラ・フランチェスカ、マンテーニャ、ミケランジェロ…綺羅星のごときルネッサンスの画家たちのそれを凌駕するということになるのではないか、と俄かにそう思ったりするのである。勿論それらは本邦の高松塚古墳画のように長い期間地下に眠っていて外気に触れなかったという事情があり、額面通り受け取れないが、それにしてもその造形性、表現性の豊かさに驚かされる。
例えば、その間の初期キリスト教カタコンブ壁画、モザイク、イコン、そしてルネッサンスまで、平面芸術のテーマは当然キリスト教世界オンリーであったが、ポンペイのそれは神話世界もあるが、静物画、風景画、風俗画などもっと日常的で人間的なものがテーマとされたり、質・量感や遠近法、トランプルイユ(だまし絵)などの技巧が既にその頃からあったのである。そういう日常的、人間的モティ―フがルネッサンス前に取り上げられていたらもっと敷居が低く豊かな美術史となっただろうと思うのである。
さてそのポンペイの壁画の、発掘後の調査によりそのフレスコの処方について、それは、漆喰が生乾きのうちにメデュームを一切介さずに一気に描かれた湿式フレスコ、即ちブオノなのかそれとも何らかのメデュームを介するアセッコ(乾式)なのか、その画面の滑らかさ、色彩の光沢、どうすればあのようになるのか等について、様々な研究者や科学者、画家などの間に侃侃諤諤の議論があったが、発掘後300年余を経た今も明らかでない部分があるとされている。
いずれにしろ、代表的な「秘儀荘」の例から想像するに、あの広い壁面にフレスコで描くとすれば、相当腕の良い、それぞれ複数の画家と左官や建築家がいて、下絵等計画的に準備をし、その管理造形下で短期間に作業を終わらしたということが想像される。最大の問題はその光を照り返すような光沢の処方である。それについてはアンコスティーク(エンカウスト)か後述するストゥッコルストロかと言うことが議論の中心であった。筆者においてもその追体験のためにも今一度整理する要を認める次第。
先ずそれぞれの定義から。先にも述べたが、アンコスティークとは一般に「蝋画」と訳され、その技法の趣旨は「蜜蝋で顔料を溶いて描く」というものである。しかしポンペイ壁画で語られるそれは全く違い、概ね以下の処方となる。
先ず中塗りまでは普通のフレスコと同じ。上塗り以上が石灰と混ぜる石類が細かくなり最上層は大理石粉末となる。途中一回乃至二回スタッコに顔料を混ぜる、つまり、カラ―スタッコとなる。秘儀荘の真紅の壁はその色である。ここで磨きを入れるが、この方法が先ず問題となる、生乾きのうちに描画しなければならないので磨きはある程度までである。そしてブオノで描画。乾燥後蜜蝋をかける。蜜蝋には揮発性油と植物油を混ぜる。更に乾燥後表面をトーチで焼く。厚い蝋層の大半は溶けて流れてしまうが、最小限のものがスタッコに焼き付けられ、ワニス効果のように絵を保護する。その硬化後これを徹底的に磨く。これがポンペイ壁画のタイルのような光沢の正体であるというのが、本邦技法書でも紹介されている「ポンペイ・アンコスティーク説」の趣旨である。
一方ストゥッコルストロのイタリア語の意味は「輝きのある漆喰」ということ。その意味では上記ポンペイ・アンコスティークもその範疇にはいるが、これは「蝋」の介在をどのように扱うかで区別される。基本的にはアイロン状のもので磨けばあの艶は得られるという。さらに特筆すべき見解は、ポンペイには蝋はなかったという立場である。アイロンは当然当時なはなかったので、例えば円柱状の容器に熱湯を入れ、ねかせて画面を転がすという方法を想定している。この議論の経緯は刊行物を追えば明らかである。
(つづく)