Ψ筆者作「修道院の庭」 F10 油彩
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 ところで、最近「アート」と言う言葉を方々で聞く。「art」というのは「芸術」と言う意味なので「芸術」を主張しているのだろうが、正直その二つの言葉が別の概念を持つという実感を持つに至っている。それに必ずしも前稿で述べたような「厳格」な定義を求めるつもりはないが、例えばそれを「美しいもの」、「創造的なもの」のみで定義すれば何でもアートになり得る。事実昨今は頭のてっぺんから足の指先にいたるまで、そう名乗っているものがあるが、芸術とは、「芸術的」形やスタイルがあればよいというものではない。当然「芸術家」も同様である。
 筆者は上記二要件に「個を介するもの」、「芸術としてのメッセージ性を有するもの」二つを加え、それ以外は「芸術的」であっても芸術そのものではないと考える。
 実はこの「個」の扱いが現代美術では大きな問題となった。例えばかのマルセル・デュシャンの「泉」や、ポロックなどのアクション・ペインティングなどはその「個」を排することそのものを大きな芸術的テーマとして提起したのである。しかしそれは理屈ではなく、そういうメッセージ性が有り、その創造の主体としての「個」があり、芸術とせんとの創造者の意思があり、それゆえ現に芸術たる認知を得て美術史上に名を刻んでいるのである。
 その「個」には、それを為し得る才能とか資質とか言われるものがその前提として必要なのは言うまでもない。資質の中の重要なものは創造者の「思想」であると考える。思想とは状況に対しては「問題意識」や「批判精神」であり、自我に対しては「レゾンデートル」への解答である。当然美意識等感覚の問題も「造形思想」を形成する。
 その個に関連して、「個性」と言う言葉があるが、これを、殊更「ユニーク」さを衒うものや「豚が空を飛ぶ」ような奇異さを指す向きがあるが、それは大きな誤りである。むしろ個性の何たるかは、創造者の精神の有り方に帰す問題であり、その素直な反映である。例えば、一つのモティーフやテーマと一歩も引かず対峙し、徹底的にそれを掘り下げるという姿勢は、それは今日では希少価値であり、前者のような意味のものは逆に今日では類型を成し、記憶にも残らない。
 次に時代的背景事情を過去の拙文で語る。

≪芸術を取り巻く背景は大きく変わった。戦乱や不治の病により人間存在の脆弱さを前提としなければならない時代があった。未成熟の生産社会にあっては、人は貧困や差別や人間疎外等の混沌の中では生存にかかわる戦いを強いられた。そうした中にあって各種芸術は、緊張感とリアリティーをもって個々の人間に直接語りかけることができたのである。
 そして今時代は確かに、豊穣な物質、便利な暮らし、享楽文化を備えるという意味では一応の成熟を遂げた風だが、それは、人間の苦悩や迷いやは不安からの解放を意味しない。次から次に起こる社会的問題は枚挙に暇がない。鬱病や自殺、昨今のヴァーチャル人間、オタク人間の起こす諸諸の犯罪行為はGDPや長寿社会とは関係なくおこっているのである。それらは姿かたちを変え、むしろ一層複雑に、人間存在に係るあらたなテーマを投げかけている。 問題は、そうしたテーマは置き去りにされたまま、芸術がそれに対応した新たな創造を成し得ず、人間の側ではなく「時代の側」に傾斜してしまったということであろう。≫
(つづく)