Ψ筆者作「陽のあたる家」 F6 油彩

以下は過去何度も援用した、シュール・リアリズムとアメリカン・ポップアートに関する既出拙文である。
≪英語で「個人」のことをindividualと言う。これはdivide(分ける)に否定冠詞inがついたものである。つまり、個人とは宇宙の最小・最終単位で「もうこれ以上分けられない」という意味であったはず。
ところがそうではなかった。躁鬱症、分裂症や多重人格など純粋な精神病理学的分野に限られず、もっと日常的なことで、人間は自分を自分でコントロールできないとか、自分で判らない自分があるとかいうことがある。そういうことがフロイトなどの精神分析学などにより究明された。つまり、もう分けられないはずのものが、さらに分けられてしまったのであったのである。ここに無意識、潜在意識、夢、「オートマティズム」に着目したシュールレアリズム芸術が生まれた。≫
ところがそうではなかった。躁鬱症、分裂症や多重人格など純粋な精神病理学的分野に限られず、もっと日常的なことで、人間は自分を自分でコントロールできないとか、自分で判らない自分があるとかいうことがある。そういうことがフロイトなどの精神分析学などにより究明された。つまり、もう分けられないはずのものが、さらに分けられてしまったのであったのである。ここに無意識、潜在意識、夢、「オートマティズム」に着目したシュールレアリズム芸術が生まれた。≫
≪「アメリカンポップアート」における、A・ウォホールのポートレート。R・リキテンシュタインのコミック・ストリップ、J・ジョーンズの星条旗、J・シーガルの人型…それらは本来の人間社会におけるそれらの意義や機能を剥ぎ取り、全く違う形相で芸術として現れている。そのことで見事にマスメデアやテクノロジーの発達で巨大にふくれあがった人間社会のド真中から裏返しに人間や芸術を浮かび上がらせている。つまり従来の芸術は「精神」を詰め込まれ、「個」などという厄介なものをひきずり、泣いたり叫んだり右往左往する「人間」というものを中心に考えてきた。
しかしアメリカンポップは人間を人間の側からでなく、人間の属する.それ自体自立し増殖し、モンスターのように巨大化したは背景の中から捉える。人間すら金太郎飴のようであり、薄っぺらで大量生産大量消費される哀れなもとなる。≫
上記は、「人間」に関して、全く新しい視点から光を当て、そのことにより新たな芸術の地平を切り開いた優れた芸術運動の二例である。そしてこの二例から、逆に「芸術とは何か」の命題が考察されるように思われる。
即ち一定の時空で展開する事象、現象、及びその中の社会的存在としての人間、その表象の如何に目を奪われるのではなく、その底流に潜んでいる、それらの本質とか真実とか原理とかいうもの、人間で言えばその「原存在」に光を当て、引っ張り出すというのが芸術の目的であり使命である。
こういう視点で美術史上に残る絵画を見ると、姿形こそ変え、総てそこに届き、その要件を満たしているからこそ、時空を超えて生き続ける普遍性ある芸術足り得るということ。言い換えると、そこに届かないものは芸術としての力を持ちえず、時代とともに消え去る根無し草ということになる。
勿論これは「何かを表現する」という表現芸術に限るものではない。色や形、マティエール等造形要素固有の生命を解放するという、セザンヌ以降の流れにも生きている。アブストラクトで言えば≪それは何も意味しない。「絵画」と言う意味そのものだからである≫と言う言葉により、それは画家が感じ、引っ張り出した美とか真実とか原理とかのそのものの形相に他ならない。
言葉にすれば、そういう厄介な話になるが、要は創造の主体たる画家が、自分自身の、美意識や感情や思想等の原存在をぶつけ、絵画的価値に係る一定要件をクリアすればそうしたことになるというのは、「主情派」の代表格ゴッホを見れば明らかであろう。
ところで、「現代美術」とか「クラシック音楽」とか言う言葉があるが、例えばルネッサンスも新古典主義も印象派も20世紀絵画もそれぞれの時代では全部「現代美術」であったのである。また、「クラッシック音楽」も最初からクラシックであったわけではない。現代と言う時点に立ってクラッシックなのである。
これらが芸術として、時空を超えて今日まで生きているのは、それが大きな普遍的価値に結びついたからであり、そうなったら「現代」や「古典」などの言葉の括りは意味がなくなることになる。
一方、2015年現在、今日ただ今の創造もある。これは上記の意味の「現代美術」と区別して「同時代美術」と言うべきであろうが、これが普遍的価値を帯びて歴史に名をとどめるか、時代とともに消え去る根無し草で終わるか、その中身を問わなければならない。
(つづく)