Ψ筆者作「村はずれの橋」 P12 油彩

前記のように古典派と印象派では、その造形性は違うが特に色彩の扱い、正確には絵具(ここでは油絵具に限定)の塗り方の扱いで大きな違いがある。
そもそもルネッサンス前後の初期古典派では今日のようなチューヴ入りの絵具ではなく、画家が顔料を大理石のパレットなどですり潰し、メデューム類で練って作った。そして、色味の強い色彩は希少価値であり高価であり、例えばラピズラズリで作ったウルトラマリンなどは聖母マリアのマント以外で使わないなどの制約があったが、色味ある天然土や、ものを焼いて作った褐色系やカーボン類で作る黒などは安価で手軽に作れる。古典派絵画が全体に黒っぽい原因の一つはそれである。
ところで、しばしば「鮮やかな色彩」とか「カラリスト」が絵画的価値の前提であるかのような論調を聞くが、「色彩感覚」とはそのような安直なものではない。例えばチューヴから出したての原色が綺麗なのは当たり前の話。甚だしい場合は今日的な光学的色彩、映像や印刷媒体の色彩と混同させて語っているものもある。古典派においては「フォルムに乗った色彩」の如何が問題なのである。後述するコローの色彩などは個々には決して綺麗な色ではない。しかし筆者はコローは稀有なカラリストであると考える。あの色彩、誰もが出せるものではない。
さて、その絵具であるが、絵具は「色味」とヴォリューム(体積、量感などの概念)から成る。市販の絵具は顔料とそれを練るメデューム類から出来ているが、顔料を繋げ固着させる糊的なもののほか、ヴォリュームを与える樹脂や増粘剤、レーキ類絵具のように炭酸カルシウムなどの「体質顔料」が加えられる。
したがって、例えばリンゴを赤い絵の具で塗るという時、そのリンゴの形の色面には赤い色味と同時に相応のヴォリュームが加わることになる。これを便宜上の造語で「色量加重」(色味と量感=体積、の加重)と呼ぶことにする。
そのリンゴの背景を青系で塗るとした場合で、リンゴの表現に悪戦苦闘した場合、その赤の絵具層がドンドン厚くなる。背景の青が薄いままだとレリーフのようになってしまいチグハグとなるので背景も厚く塗る。結果赤と青それぞれの色量加重が分厚くなり過ぎ、重々しく鬱陶しく、色面が単調に分離してしまう。これはよくアマトゥールやビギナーに見られる失敗例である。この単調さを防ぐため、印象派はリンゴの影部分に反対色の青を入れ、同様に背景には赤の成分をスパイス効果として散らす。こうすることで主役と背景が互いに響きあうような、ニュアンスある画面となる。
この他、上記反対色に限らない、色味を複雑に混ぜる、ナイフなどを併用してマティエールそのものの効果を狙う、グラシなどにより透層効果を図る、削ったりこそげ取ったりの「引き算」画法、これらはいずれも画面に「コク」を出すためいろいろな工夫であるが、これも、色量加重の過度の重さ、単調さを克服するための画法であり、油絵の可能性をさまざまに展開させたものと言えよう。
いずれにしろ印象派以降の具象絵画は概ねこのような「絵作り」で出来ていると言ってよいが、これらは絵具を「ベタ塗り」するという意味で、絵画の英訳である[Painting]にふさわしいが、先に述べた古典派絵画の「分離画法」やその描画技術の一つであるハッチングはベタ塗りではないので厳密には[Painting]ではない。
(つづく)
Ψ筆者作「赤い屋根の村4」 F6 油彩
