Ψ筆者作「家路2」 F4 油彩

「古典派絵画」の概念を一応印象派前までとすると、その技法はその後の印象派以降とは大きく違う。一つは言うまでもなく、それは厳格な「造形アカデミズム」を基礎にして出来上がっているということである。造形アカデミズムとは、構成、デッサン、トーン(調子、グラデーション)ヴァルール、質感、量感、立体感等の的確な把握の為の修業体系ということになる。厳格と言う意味は、例えば雲、特に入道雲のような雲には凄みある立体感はあるが、重さや密度と言う意味の量感はない。これとは逆に、人間などには立体感と同時に、確かに中に五臓六腑が詰まっているというという実在感の表現が必要である、これが上記の意味の量感である。因みに昨今流行りのハイパーリアリズムとか言われる、素人目の「視覚のオドロキ」に終始するようなものは、おしなべてカラー写真を貼り付けたように軽い。これはそのような造形の本質から骨組み、肉付けされるのではなく、写真やテクノロジカルな手練手管でその表象だけを転写したに過ぎないからである。
ともかくその造形アカデミズムの出来如何により、諸々のリアリティーの質が決まるが、勿論「絵画芸術」としての価値は意義は、そのような技術的なことにあるのでなく、中身が問題なのであるが、古典派絵画とはそれを上記造形アカデミズムを通じて希求するという一造形形式ということになる。
ここで特記すべきは、その造形アカデミズムの中には取りあえず「色彩」は含まれないということである。勿論色彩を無視するわけではない。ただそれは、全体の絵画空間の美しさや秩序を壊さない、一定に抑えられたものとなる。言い換えると厳格なフォルムと奔放な色彩は両立しない。それは具体的な方法論としても現れる。
例えば油彩以前の素材である鶏卵テンペラの画法には卵黄単一の「マグラ」、混合技法の「グラッサ」、「ミスタ」などあるが、うちミスタはテンペラによる描きおこしと油彩による「透層」の分離画法で、前者でフォルムやトーンを処理し、後者で色づけを行う。つまり、色彩とは 描画工程では別物とされているということになる。
さらに油彩そのものにおいても「グリザイユ」がしばしば採用されるが、これは無彩色モノトーンによる描きおこしを基礎とし、色彩はあとから乗せられるという、これも分離画法である。有彩色モノトーンである「カマイユ」、「ヴェルダイユ」も考え方は同様である。
一方、印象派の造形史上の大きな意義とは、この「色彩」の固有の生命に着目して、太陽光線のスペクトル表現と相俟った絵画空間を創出したことにある。実際に戸外にイーゼルを立てるということも、スケッチを基にアトリエで仕上げるという古典派とは違うし、その視覚的実感から、遠近法も古典派の「色彩遠近法」(近景を茶系、中景を緑、遠景を青で塗り分ける)から「大気(空気)遠近法」へと移る。これは「時間」や季節感、自然の瑞々しさの表現に古典派を超えるリアリズムを得る。ただ上記造形アカデミズムは色彩を解放する分古典派程厳格ではないが、その絵画的価値追究の方法論としては踏襲される。
(つくづ)