2.「吉薗資料」の破綻
 落合氏は、吉薗明子側の代理人を自認し、「洋画の天才佐伯祐三の事績については、『周蔵の手記』『救命院日誌』のほか多くの資料が吉薗家に残されていた。いずれも極めて信憑性の高い一級資料である。」と述べ、自らもその立場に立った多くの著作を残している。したがって、吉薗資料に関する疑義は同氏の主張に関する疑義であり、以後の論述は、弁舌爽やかな落合氏の言辞中心に係るものとならざるを得ない。
 まず、それらを読んで共通して感じるのは、「創作」を「事実」の中に巧妙に潜り込ませて、如何にもその文に説得力を持たせているという点である。
 例えば、落合氏は件のホームページの「天才佐伯祐三の真相」の中で、佐伯の手製キャンバスについて、専門家でなければわからないような細かな資料を挙げながら、氏のもう一つのメイン主張である「米子加筆説」等を合理化するものとして援用している。この「米子加筆説」については、本書第二部の吉留筆による「佐伯の造形性」において明確に否定されている。それは、「下層が濡れている間の上層の線描」であり、それは単独者でなくては不可能な仕上がりであること、その濡れている下層の色面を引きずりながら引かれているその筆跡が画面で明確に見られること、すなわち一気呵成に仕上げられた、加筆の余地のない画面であり、まったく根拠のないものであるということである。
 その落合氏が援用した専門的資料とは、佐伯の手製キャンバスの、膠、胡粉、炭酸カルシウム、酸化亜鉛等の名称が出てくる原料素材について仔細に分析したものである。落合氏自身もその出典を明らかにしているが、実はこれは、佐伯の他の実作を修復した、前述の「創形美術学校修復研究所」が諸々の科学的機器を使って分析した資料を、その刊行物である『創形美術学校修復研究所報告』十巻(一九九二年)ないし十三巻(一九九五・九六年合併号)で発表した「客観的事実」を丸写ししたものであり、落合氏主張の何ものをも立証するものではない。このような資料を添付することで誠にそれがもっともらしく聞こえるのである。
 この「虚実併記」や「創作展開」の例として吉薗明子編著『自由と画布』を挙げたい。これ一つで先に述べた「一を知って十を知る」ということの論拠は明らかであろう。
 
『自由と画布』第三号(平成五年十一月)において、牧野医師が現れる。
《「彼は馬の目である。」「耳、鼻、眼には異常はないようだ。」「メニエールと思われる。」》
 とある。
 この記述はどうもおかしい。一体「耳に異常がない」と言った直後に「メニエール」と思われるとは、どういうことだろうか? メニエールとは内耳の疾患なのである。
 ともかく、この話は以下の展開に結びつく。
《佐伯は短い一生を通じ、常にメニエル氏病に悩まされていた。「救命院日誌」大正八年五月九日条に、佐伯が酷いめまいを訴えるので、周蔵は牧野医師を呼ぶ。牧野が来る前に、カルテを取り出すと、「彼ハ馬ノ目デハアル」とある。牧野はメニエル氏病と診断した。母親の遺伝であるらしい。夫のメニエル氏病を当然知っていた米子が、忠実な祖述者の朝日晃にもそのことを教えなかったのは、それなりの計算によるものだろう。つまり、芸術家の持病は当然作品に影響を与えるが、佐伯の場合はむしろ意識的にそれを活かし、晩年「フォービズムでもアカデミズムでもないワシの芸術」として結晶させた。このゆえに佐伯の原画には、当然メニエル氏病患者の特徴が強く出ていたが、米子の加筆により、それはあらかた消えた。夫の作品からメニエル氏病的特徴を意図的に消した米子にとって、夫のメニエル氏病は、自分の加筆と同様に、絶対に隠さねばならなかったのではないか。》
《メニエル氏病の患者は目眩に悩むが、視界の中心から、波紋が輪のように広がり、外に行くに従って見えにくくなる。これを周蔵はハエの目と呼んだ。それが変化したのが馬の目で、眼前のものと遠方がはっきり見えるのに、中間が見えない状態になる。だから、風景の奥行きが捕らえられず、殊に米子の北画の遠近法はよく飲み込めなかった。周蔵は佐伯に、自分の身体的弱点を逆に絵に利用したらどうか、とかねてから勧めていた。佐伯は漸くそのことを理解し自覚したのである。》
(落合莞爾「天才佐伯祐三の真相」)
 
 これはすべて創作であるが、話は「米子の加筆」まで進展してしまうのである。前述の通りメニエール病とは内耳の疾患である。悪化した場合は「難聴」となる。前記のような視覚の障害は考えられない。仮にそうだとしても、これだけのことを言うなら医学的な根拠を示すべきだろう。
 次に、『自由と画布』には盛んに「牧野」という名前の医者が出てくる。これは「牧野三伊」という実在した医者のようであるが、小林報告によれば、この牧野医師と周蔵の繋がりを証明するものはなく、このような事実と創作を混同させるというレトリックは一貫していると言える。
 例えば、『自由と画布』には、佐伯祐三と「エロシェンコ氏の像」で有名な中村彝と接触があったかのように書かれている。確かにこの大正末期の「二大スター」の接触は面白いが、二人に直接の接点はない。共通するものとしては、供に下落合で近くにアトリエを構えていたこと、共通の知人として画家・曾宮一念がいたこと、また佐伯の師匠筋の藤島武二は帝展のトップで、そこへ出品していた中村彝の葬儀に来たこと、佐伯の「第二次渡仏」の際、下落合の佐伯アトリエを留守番がてらに借り受けた画家・鈴木誠が、彝の死後そのアトリエを引き継いで使用したこと、彝の最後の主治医であった遠藤繁清の渡仏の際、佐伯を診察してくれるよう曾宮が頼んだことなど、エピソードはいくつかある。
 そういうことで中村彝も吉薗資料に引き込まれたようだが、おかしな点がいくつかある。
 
『自由と画布』第三号における「留守中の経緯」(大正八年六月近辺)について。
《中村氏(彝のこと)の主治医は遠藤先生だが以前は牧野さんだった。が旅行に出る時遠藤先生に代わった。そのいきさつを知らない牧野さん曰く、どうも彼は私を信用しとらんらしい。医者を選ぶは病人の自由であるからして仕方ないがどうも好かん性格だねとのこと。遠藤先生にも好かれていないようだ。》
 
 前記文について語る前に、中村彝の闘病の経緯について語らねばならない。
 若い頃から業病たる結核に苦しんだ彝であったが、彼もまた佐伯と同じく絵を描くことは生きることであり、為に痛ましいくらいの生存のための方途を模索した。当時、結核は不治の病としての医学の限界を突きつけられていたので、彝も様々な療法、時に怪しげな民間療法や加持祈祷に類することまで、あらゆる可能性に縋ったのである。
 評伝(後記『中村彝』)で伝えられているものだけでも、まず「中村屋」の相馬黒光などの勧めによる、当時各界で流行っていた岡田虎二郎の「静坐法」という、座して呼吸を整え瞑目するというだけのもの、「牧野のヨード注射」、高名な細菌学者である志賀潔のものであるが、未だ試薬段階の「結核ワクチン」、「ホメオパシー」と言われる精神療法、悪阻専門医の暗示療法、「皆川式酸素療法」等、今日の「癌」に係る試行錯誤のような、良いと伝え聞いた、ありとあらゆるものを試している。しかし、さしたる効果はない。やがてパトロンであった今村繁三と画友・曾宮一念が三井慈善病院の木村徳衛博士を連れてくるが、無情にも曾宮らは「余命一週間」と宣告される。
 そうした絶望の中、静坐会で一緒だった心理学者・小熊虎之助を介し、遠藤繁清医師と出会う。遠藤医師は下落合近くの江古田にあった東京結核療養所の副所長で『通俗結核病論』の著者。遠藤医師は、普通はこのような形で個々の患者の診察をすることはないが、たまたま下落合在住であり、「エロシェンコ氏の像」などを見て彝を知っていたこともあり、大正十年四月より彝の主治医となり、彝は遠藤医師から、件の「余命一週間」が三年半以上も延びるような適切な療養指導を受けることになる。遠藤医師は彝を嫌っていたどころか、重篤な病状と絵画制作のバランスをどうとるか非常な苦悩をし、絵を描かせるために敢えて絶対安静の措置は取らなかったのである。
 
 ここで先の『自由と画布』の「留守中の経緯」にもどる。一人の画家の生存のための必死の戦いを、このように歪曲することに怒りすら覚える。
 まず右記のように、彝には遠藤医師に至るまで主治医というものはいなかった。「主治医は遠藤先生だが以前は牧野さんだった」というのは真っ赤なウソである。
 記述では「遠藤先生」と書いているが名前まで書いてない。誠に狡猾な書き方である。しかし周辺事情から誰しも遠藤繁清医師を想起するだろう。しかし年代を見ていただきたい。その日付は大正八年である。前述のように遠藤医師が彝の主治医となったのは大正十年である。あり得ない!
 一方、彝の前記闘病歴の中に「牧野のヨード注射」というのがある。この「牧野」は「牧野三伊」ではないと思われる。大正七年頃、「牧野民蔵」という医師が有機ヨード剤の注射を開発し、大正十二年、肺結核症・腸結核症・脳神経衰弱症・貧血症等の効能薬品として、内務省から製造許可され発売されている。評伝にある彝の「ヨード注射」が、こちらの「牧野」のほうだとすれば、これも当然「以前主治医は牧野だった」とは言えない。「牧野のヨード注射」を垣間見て、都合よくそういった可能性もある。
 
 以下、小林報告で指摘された事実との齟齬と落合氏の反論を併記する(サイト「天才佐伯祐三の真相」及び『天才画家「佐伯祐三」真贋事件の真実』より)。
◎小林報告
「淀橋病院」が東京医大付属病院として設立されたのは一九三二年であり、それ以前には存在していなかった。
●落合反論
 牧野は確かに以前は中村画伯の主治医で、事情があって遠藤繁清に代わった。従来の中村の評伝は、これに関しては不正確なようである。
(牧野の)「淀橋病院」は伊東博士が経営のものである。
 
 疑問には直接答えず、別途で別病院であったと言っている。
 
◎小林報告
 遠藤繁清医師が中村彝の主治医となったのは大正十年四月以降であり時期に齟齬がある。
●落合反論
 牧野の代診をしていた遠藤与作は、遠藤繁清の縁者で、当時もとより実在した淀橋医院の薬剤師であった。
 
 右記二点の文脈からは、淀橋病院は別病院で、大正十年からは「繁清」かもしれないが、それ以前は「与作」が「主治医」であったという風に読める。そもそも薬剤師が代診したら医事法違反ではないだろうか。第一「代診薬剤師」を「主治医」と呼ぶだろうか?
 これでは話にならない。「遠藤」が時期の辻褄併せで「与作」になったり「繁清」になったりしているのである。
 それと、遠藤繁清医師が中村彝の主治医となったのは「事情があって」ではない。「中村評伝の不正確」を言うなら念のため、この経緯を記す。
《…そのような折、小熊虎之助を介し彝を知った菊池香一郎が、やはり同病で久しく悩んだ末に、当時東京市の結核療養所副所長をしていた遠藤繁清の新著「通俗結核病論」を読んで、その療法の穏健でまた合理的であること、筆致に現れた著者の頭脳明晰とその態度の堅実を認めて、別に一冊求め彝に送った。かくして彝はその著者を通じ遠藤医師を知り、同氏にその治療を全面的に委ねたいとの希望を小熊虎之助に漏らした。そこで「大正十年四月十一日の夜」、小熊が早速使者として目白の遠藤邸に出向き、率直に「貧乏で充分な謝礼は尽くされないが、偉大な天分をもつ芸術家の運命に同情いただければ…」と願った。…》
(鈴木秀枝『中村彝』平成元年・木耳社)
 
 一字一句不正確な点はない。その後の経緯は前述の通りである。これが真相である。
 
◎小林報告
 吉薗周蔵が佐伯を連れて「中村屋」で会食したと言うが、中村屋に喫茶部ができたのは昭和二年である。
●落合反論
 中村屋は、上高田の早稲田通りに沿った角にある食堂で、周蔵は毎日通っていた。今は酒屋になっている。(新宿中村屋とは無関係)
 
 これはまったくのウソである。
『自由と画布』第三号
《「美術学校、とうせん、つうか」と玄関で大声で云って入って来た。中村屋へ同行し、祝いの食事をする。相馬さんがいれば紹介しようと思ったが留守だった。》
 と明確に書いてある。この相馬さんとは上高田の食堂の親父さんなのだろうか? 誰が見たって中村屋の創業者・相馬愛蔵、黒光夫妻のいずれかであろう。それとも落合氏のような博学者が相馬を知らなかったのであろうか?
 この点について落合氏は、次版で訂正するが、その内容は「すべて佐伯の作り事」と逃げている。これではとても信用できない。
 
 前記落合氏の反論の趣旨は、その後の著作『天才画家「佐伯祐三」真贋事件の真実』でも変わらない。氏の反論については、ほとんど場当たり的で根拠・証拠を伴わないのである。
 小林報告は他に、渡航に係る事実関係、親族縁者関係、筆跡や郵便類、そのスタンプ類、デッサン等これに数倍する不実、矛盾、確認不可、齟齬の例を挙げているが、本書においては本来の吉薗資料については、それらを全部挙げて反証する要を認めないので割愛する。
 つまり当初、佐伯作品の真性を傍証するものとして援用するつもりであった吉薗資料等は、逆にその信憑性が疑われたことにより作品そのものの足を引っ張った、そういうところであろう。
 最後に武生市に提示された佐伯作品三八点は、誠に出来の悪いお粗末なもので、ちょっと絵を知っている人が見たら、たちどころに贋作と見破られるようなものであったようだ。しかし、現実に真作を主張したその筋の専門家と言われる人が何人かいた。妙な資料が出てこなかったなら、そのまま美術館に収まったかもしれない。それはそれで問題だが、市場側が贋作を主張したのも、その立場での思惑によるものだろう。
 そうした利害得失ではなく、真実を求める心あるなら、これを機にもう一度美術館や市場に出回っている佐伯作品を検証し直すべきではないだろうか? 否、佐伯作品に限らずであるが。