東京五輪エンブレムのオリジナリティーの是非がここ数日話題になっている。
結論から言えば関係者はこの使用を撤回すべきと考える。これはそのオリジナリティーの存否とは直接関係ない。結果として似たようなものが二件もあったということ、ましてやそのうちの一件は本邦の東日本大震災の募金のためという道義的責任もかかわってくる。
そもそも今回のような「メディア美術」あるいは「商業美術」には、一般絵画芸術のような作品固有の本来の意味のオリジナリティーの存する余地はない。その意義は不特定多数を相手として、啓蒙、宣伝、広報を目的とした、印刷物や映像等に複写されることを前提としたものであり、したがってその中に存する諸々のデザイン性に係る価値や情報効果も、そうした目的に適うものでなければ意味はない。
つまり、その価値体系とはその種の「ポピュリズム」の中に存するのである。かの新国立競技場のザハのデザインも「予算」と言う最大のポピュリズムの壁に跳ね返されたと言える。したがって、メディア美術等が万国共通の幅広い価値体系の中でその価値や機能が是非されるのはその宿命であり、その幅広い共通の価値体系故に「バッティング」とか「ブッキング」とかは十分起こり得る。
そうした時に立証困難なオリジナリティーを主張しても始まらない。似ていることは事実であり、似たものが他に二件もあったという事実においてのみ十分に撤回事由足ると考える。なお、筆者は東京五輪そのものについても前記事においてその存念を述べた。
追伸
8.15現在、当該人側が別途バッグの意匠について「借用」を認めた。客観的に見てもあれは明らかなパクリである。このことにより。かの五輪エンブレムは、上記で筆者が述べたポピュリズムの中の、「偶然のバッテイング」ではなく、当該人が日常的に行っていた「借用」の一結果であったと推定される。つまり、バッテイングの惧れあるポピュリズムの中では、なんとかして自己のオリジナリティーを追求するという姿勢は一層シビアに求められるはずなのだが、その意味の創造力が希薄な者は安易に、そのアイディアを既成のポピュリズムの中から拝借しようとする。この、創造者としてのあるまじき行為を日常的に行っていたということになる。
答えは明らか。件の五輪エンブレムの撤回以外にない。このエンブレム問題、莫大な予算、そして別途述べた震災の可能性、最近では毎年夏の異常気象も問題となっており、これだけの騒ぎやリスクを抱え、「国際運動会」を強行する理由がわからない。