Ψ筆者作「パリの空の下セーヌは流れる」 M10 油彩
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 ここはパリの名勝地の一つ。名勝地と言えば、他にシテ島、ノートルダム、モンマルトル、サンマルタン運河…等いくつもあり、多くの日本人画家も其処を描いている。いずれも何処をどう捉えても絵になる景色である。ところが面白いことに佐伯祐三はほとんどそういう名勝地を描いていない。佐伯が描くのは、名もない街角の店先、汚れた壁や広告塔、公衆便所すら描いている。つまり、全体の絵画的構成よりそのパーツ、ディテールの表現性の方に佐伯の造形感覚は働く。
 また他の画家には「代表作品」と言われるものがある。例えば、青木繁は「海の幸」中村彝は「エロシェンコ」、岸田劉生は「麗子」シリーズなどであるが、佐伯にはそれに相当するものを思い浮かべない。よく画集などで「郵便配達」や「立てる自画像」などあるがあれは勿論代表作ではない。つまり、佐伯は個々の作品より画業全体にその評価の基準があるのである。これに類する西洋の画家が理知派と主情派両派を代表するセザンヌとゴッホである。
 また佐伯は日本の風景は絵にならないと言って命を賭けて再び帰らぬパリに渡った。佐伯の造形感覚では日本の風景は貧弱で表情のないものと映ったのである。佐伯独自の手製キャンバスも、佐伯の造形感覚の受け皿として必須のものであった。
 これらは佐伯芸術の本質を語るに重要なことなのであるが、そこを掘り下げた評伝は少ない。これは多くの評伝記者が自ら絵を描かないことの限界である。多くは「天才」と言う言葉で片付けているが、その天才の中身に迫っていない。
 さて、冒頭述べたとおり上掲作品はその陳腐な名勝地である。こういう名勝地を印象派風に、あるいはフォーヴ風に描いた絵もあるが、なまじ実景を知っているとわざとらしく逆に面白くない。ではどうすればよいか?そのまま描き、画題もそのままシャンソンからとってしまえ、そういう絵である。
BGM