Ψ筆者作「船溜まりの町」 F30 油彩
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再掲≪コローの研究≫
 当初のヨーロッパ風景画はキリスト教的世界観の影響もあり、なかなか「人間」から離れられなかった。必ずと言ってよいほど人間が描かれている。言わばそれは「人生劇場」の背景的意義があったのである。それは確かにフォルムのリアリティーはあるものの、時に寓意的、神話・宗教的、生活描写的、幻想的、回想的で、木の表現なども類型的、葉一枚一枚を丁寧に描けば描くほど、あたかもアンリ・ルソーの「超イメージ゙世界」のようにリアリズムから遠ざかっていた観すらあるものもある。
 そうした意味では熟達時のコローも、件の「モルトフォンテーヌ…」や「牧歌的…」などは風景画としての意義を読み取る方が難しい。
 一方、先の「背景」としての風景ではなく、風景そのものにのに視点をもったという意味でも印象派の業績は大きい。色彩は光のスペクトルと関連してとらえられ。大気(空気)遠近法、季節、時間的概念の導入など、「リアリズム」の極致とさえされる見方もあるが、なにさま色味の強い色彩、デフォルメ、タッチ自体の造形的意義等あまりに「絵画的」であるため、「リアリズム」の意味は「古典派」に譲ると言うのが一般的である。
 そこで風景画として生きる「第三の道」というのが考えられる。つまり、物語性を排し、「背景」としてのものでなく、リアリズムを踏まえた、風景そのものに絵画的メッセージ性を探ると言う立場である。 自然の大らかさ、瑞々しさ、、荒々しさ、冷涼さ、森の呼吸音が聞こえるような静謐さ、詩情…、そういうものの表現には「点景人間」は邪魔になる。描き手という人間、観賞者の感受性という[人間]が立派に介在しているのであるからことさら画面には人間は必要ない。
 この傾向は美術史上では一部ロシア・旧ソ連の「リアリズム」風景画にも見られる。
 私の場合、≪イマジネーションから入るのでもなく、リアリズムで終わるのでもなく、リアリズムを突き抜けたイマジネーションの世界≫に憧憬するのであるから、コローでもない、ターナー、コンスタンブルでもない、ロイスダールでもない、クロードロランでもない、シスレーでもない、日本にはいない風景画ができるはずなのだが…。まぁ、望みは大きい方が良い!
 ところで、通常件のコローの色彩では絵にならない。暗く濁りどうしようもない。緑一色でも単調だ。コローの緑は何種類あるのか?概ね分かる。パレット上作った色を数えばよい。基本色5種類。展開56種類、それらが微妙に溶け合う。もう感覚の世界でしかない。
  それにしても上掲の作品のようなモティーフに出会えないものだろうか?もしかしたら「一生もん」かもしれない。それに近いのはあるので、今度オリジナルを描く!
 一体コローは何種類の緑を使っているのか?これを本格的に追究するためにはなお相当数の模写が必要だろう。しかし大よそのその色はどうやって出すかということと、その「緑」が、透かし光や巧みなグラデーションの処理法と相俟って、あの「銀灰色」と呼ばれる色彩に繋がり、独自の絵画空間を醸し出していることなどは、時間はかかったが、理屈ではなく実感した観がある。さらにもう一つ、あの巧みな「締めるところは締める」と「抜くところは抜く」のメリハリ、この筆遣いをものにしなければコローの造形性を「制圧」したとは言えまい。
 この適度の力の配分が画面の窮屈さや伸び切ったような限界感を感じさせず、伸びやかで詩情溢れる世界に繋がっているのだ。
 前回の「牧歌的な踊り」はかなり現物を忠実に追ったが、今回のは広範囲にそういうコローの気ままな筆跡が縦横しているので、細部までの肉薄は困難。前記のメリハリを主眼点に雰囲気把握を心がけた。
 大事なことはこういうシチュエーションにであった時、自分はいつでもこう言う絵が描けるということより、そういう際は自分の絵はどうなるかと言うことだろう。
 いずれにしろコローの模写は例の「モルトフォンテーヌの想い出」で閉めることとなろう。
(書庫「コローの森」で緑色浴)

上コロー作「牧歌的な踊り」オリジナル
下筆者模写 同作イメージ 3
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