
歳をとると時間の経つのが早く感じるというのはよく聞くことである。もっともらしいと思えるのに以下のような説がある。
例えば20歳の者にとっての1日とは、20年分の1、60歳の1日とは60年分の1日なので、分母の大きさに比例して1日の時間が短く感じることになる、という話である。しかし、例えば何かに夢中になれば時間は短く感じるし、無為に過ごしていたら時間は冗漫に流れるだろう。それよりも、この年齢による時間の感じ方は残された時間の長短に関わると言うべきだろう。これを時間的概念とすれば、空間的概念も自我を取り巻く世界はだんだん小さくなってくる。例えば若い頃抱いていた大きな希望もだんだん縮小され、夢は一つづつ諦め、憧憬し希求していた価値もそれほどのものではなかったり、信じていたものが所詮幻想だったり…そいうことで時間は短く、世界は小さくなっていく。
ただ問題は、それに応じ自我も小さくなる必要はないということである。自分がそのままなら相対的に小さくなった世界故に、若い頃は見えなかったものが見え、世の仕組みや人の業もその先行きや底も見えてくる。自分にとって本当に大事なものだけが残る。その結果、「現象」の虚構に惑わされず、「真実」とか「本質」とかと言えるものに出逢う、人生の結論としてそうありたいと願う。
ここに新ギャラリーとして≪哀愁の欧羅巴≫を設置した。(表題は拙共著≪哀愁の巴里≫から援用)いずれも過去取材したヨーロッパ風景を主にしているが同時にそれは現に存する、絵画に投影すべきイメージであり、ノスタルジーであり、訪れるべき残された未来へのオマージュである。世界は短く小さくなったが、そこは過去も未来もない同じ時間が流れ、それら必要最小限のものだけがある。
(以後各記事に適宜文章追加)