
《以下再掲文》
《…かの国民的作家、当代のインテリ階層を代表するような夏目漱石は以下の言葉を残している。
「余は支那人や朝鮮人に生れなくって、まあ善かったと思った。彼等を眼前に置いて勝者の意気込を以って事に当たるわが同胞は、真に運命の寵児と云わねばならぬ」
またこれは初代朝鮮総督であった寺内正毅が「朝鮮併合」成就の祝宴で詠んだ短歌である。
「小早川 加藤 小西が 世にあらば 今宵の月をいかに見るらむ」
小早川とは小早川秀秋、加藤は加藤清正、小西は小西行長、いずれも豊臣秀吉の命を受け、朝鮮征伐に派遣された武将たちである。
これらの言葉のどこに解釈論者の言う「アジア解放」とか「近代化への貢献」の意思があるだろうか!いずれも、当代のエスタブリッシュメントの差別と侵略的野心に満ちた、国家のアドヴァンテージに陶酔した本音である。漱石も森鴎外(軍医総監)も国家に庇護され、国家的権威を与えら、国家による文化管理の一翼を担った、「文化官僚」である。漱石に限らず、当代の文化・芸術の多くが天皇を頂点とする強大な国家主義の支配下におかれ、その現象世界の因果で終始する思想は本質への限界を示し、故にそういう作品もほとんどつまらないと思えるものだった。
「余は支那人や朝鮮人に生れなくって、まあ善かったと思った。彼等を眼前に置いて勝者の意気込を以って事に当たるわが同胞は、真に運命の寵児と云わねばならぬ」
またこれは初代朝鮮総督であった寺内正毅が「朝鮮併合」成就の祝宴で詠んだ短歌である。
「小早川 加藤 小西が 世にあらば 今宵の月をいかに見るらむ」
小早川とは小早川秀秋、加藤は加藤清正、小西は小西行長、いずれも豊臣秀吉の命を受け、朝鮮征伐に派遣された武将たちである。
これらの言葉のどこに解釈論者の言う「アジア解放」とか「近代化への貢献」の意思があるだろうか!いずれも、当代のエスタブリッシュメントの差別と侵略的野心に満ちた、国家のアドヴァンテージに陶酔した本音である。漱石も森鴎外(軍医総監)も国家に庇護され、国家的権威を与えら、国家による文化管理の一翼を担った、「文化官僚」である。漱石に限らず、当代の文化・芸術の多くが天皇を頂点とする強大な国家主義の支配下におかれ、その現象世界の因果で終始する思想は本質への限界を示し、故にそういう作品もほとんどつまらないと思えるものだった。
これに対し石川啄木は以下の詩を遺している。
「地図の上 朝鮮国にくろぐろと 墨を塗りつつ 秋風を聴く」
啄木の、良く知られた日韓併合を怒り、併合され消滅した朝鮮国の悲哀に思いを馳せる詩である。この辺が、自我の存在を「国家」の枠組みの中で支える漱石と純人間的次元に置く啄木の資質の違いである。言うまでもなく、時流に流されず冷静に事の本質を見つめる、これが誠の芸術の使命に適うことである。因みにこの両者を一人でやったのが高村光太郎である。彼は若き日、文化官僚(美校教授)であった父光雲らに見るこの国の因習、権威主義に反発、アナーキーでデカダンであったが、戦時一転して「日本文学報国会」詩部会会長」として戦争支持、戦後これを反省して国家褒賞も辞退、東北の山に籠る。
芸術・文化に限らず多くの分野、個人が戦時、威勢の良いスローガンや国家精神論に酔い、「自我」を喪失したことの誤謬を認めている。とするならそれを先取りして事の大局や本質を冷静に見つめる時期あって然るべきである。それはいつか!?「今でしょっ!」》
上記にある威勢の良い「日本精神論」を吐く者に限って、価値観から生活習慣、「文化」等頭のてっぺんから足の先までアメリカに占領されていることは何んとも思わない御都合主義者のニセ愛国者である。
「地図の上 朝鮮国にくろぐろと 墨を塗りつつ 秋風を聴く」
啄木の、良く知られた日韓併合を怒り、併合され消滅した朝鮮国の悲哀に思いを馳せる詩である。この辺が、自我の存在を「国家」の枠組みの中で支える漱石と純人間的次元に置く啄木の資質の違いである。言うまでもなく、時流に流されず冷静に事の本質を見つめる、これが誠の芸術の使命に適うことである。因みにこの両者を一人でやったのが高村光太郎である。彼は若き日、文化官僚(美校教授)であった父光雲らに見るこの国の因習、権威主義に反発、アナーキーでデカダンであったが、戦時一転して「日本文学報国会」詩部会会長」として戦争支持、戦後これを反省して国家褒賞も辞退、東北の山に籠る。
芸術・文化に限らず多くの分野、個人が戦時、威勢の良いスローガンや国家精神論に酔い、「自我」を喪失したことの誤謬を認めている。とするならそれを先取りして事の大局や本質を冷静に見つめる時期あって然るべきである。それはいつか!?「今でしょっ!」》
上記にある威勢の良い「日本精神論」を吐く者に限って、価値観から生活習慣、「文化」等頭のてっぺんから足の先までアメリカに占領されていることは何んとも思わない御都合主義者のニセ愛国者である。
(つづく)