
Ψ 筆者作 「天使が喇叭吹く時」 F6 グァッシュ
ところで、そのヴァーチャルという意味では、一部識者に「ネトウヨ」と呼ばれる集団の知的レベルの低さを指摘する声もあるが、それは昨今の「右傾化」と言われる一定方向の「論調」自体の低レベルの反映にほかなるまい。いずれにしろ偏狭なドグマとこれに支配されまくる衆愚により国が悪しき一定方向にもっていかれることは悲劇であるというのは時空を超え汎く見聞するところである。
先ずそれは、自分の言葉で自分の思想を語っているものはほとんどない。歴史に関する知識からボキャブラリーに至るまで、一部御用マスコミや提灯持ち文化人の情報操作、世論誘導に容易く乗せられた、受け売り。思想がないから自ら結論は出せない。そこで「売国」、「国賊」、「亡国」、「反日」等安直なレッテル貼りや「ジャパニーズ・オンリー」風のヘイトスピーチ、「愛国心」という名のレイシズムを威勢良く放てば、何かそれらしい思想を語ったことになる気になるらしい。
ここは思想の是非以前に事実中心に述べる。
戦前本邦は明治期以来の「富国強兵・殖産興業」の国策があった。第二次大戦(大東亜戦争)まで精神的支柱にあったのが、「皇国史観」であり、「八紘一宇」や「五族協和」、「大東亜共栄圏」などのスローガンであり、「日本男児(やまとおのこ)や「武士(もののふ)」などと煽て上げられた精神訓が「忠君愛国」の実践訓とされた。戦局芳しくない中でも「鬼畜米英」、「撃ちてしやまん」、「国民精神総動員」から挙句に「一億玉砕」に至る。先ず、これが今日まで脈絡する日本精神とするなら、「鬼畜米英」が「無条件降伏」を境に一朝にして「アメリカ様様」になったのをどう説明するのか!?そして、「国策」に反対するものを「非国民」とし、「一億玉砕」すら要求した事実をどう責任をとるのか!?
ユダヤとアラブは二千年以上も戦争をしている。何度勝ったり負けたりしてもその思想は変わらない。それに比してのこの変わり身の早い御都合主義のは世界史に希であろう。しかもそのことについて、政治家も国民もこのことのはっきりした思想的総括はしていないのである。これでは数百万の戦争犠牲者は浮かばれない。とりわけ、「お国のため」死んだ兵隊は何のため死んだのかわからないであろう。
筋を通す道は二つしかない。一つは戦前を非とし戦後を是とするならその反省の具体的形式である憲法9条を死守すること、もう一つは改憲再軍備後アメリカを拒否し、場合によりアメリカへのにリベンジも辞さないと覚悟することである。ところが、現下はその両方ともでもない。つまりこの辺の曖昧さを突く論調から始めなければならないが、件の「右傾化」はそれを伴わない。
現自民党政権は過日の選挙で「日本を取り戻す」と宣うた。これは震災からの復興だけを指したものではない。当然尖閣等領土問題や改憲などを意識したものであるが、その後も右翼・保守陣営から「国家の独立、尊厳、主体性」、あるいは先に述べたような威勢の良い日本精神論などの文言を聞く。繰り返すが、それを言うなら一朝にして「鬼畜米英」が「アメリカ様様」となった壮大な御都合主義、国家的・民族的大転換を説明すべきであろう。
ところでその陣営は以下のような言葉をよく発している。「日韓併合は合法」、「創氏改名は朝鮮人自身の意志」、「張作霖爆殺はやってない」、「中国進出は侵略ではない」、「従軍慰安婦は強制ではない」、「南京大虐殺はなかった」、「沖縄での集団自決は軍の命令ではない」…等々、あれもやってない、これも事実無根と全て否定する。これらの論理が本気で世界で通用すると思うこと自体ヴァーチャルであるが、とりあえずここではその是非は論じず事実だけに触れる。
論を進める前提として「解釈論史観」について述べる。上記を認めない立場を「自虐史観」と批判する彼らのもうひとつの論理は、以前も述べたが、独自の「解釈論史観」である。解釈論史観とは「そう解釈すればそう解釈出来る」という歴史観である。例えば「ナチスがユダヤを殲滅させシオニズムを駆逐していたら今のパレスチナ紛争やテロの問題はなかった」あるいは、「ヒロシマ・ナガサキ」がなかったら戦争は続き、結果日本は滅びていた」(事実そう言ってクビになった長崎出身の防衛大臣がいたが)…これら解釈論は誤りかといえば決して誤りとは言えない。しかし現実には全く世界に通用する話ではない。上記各主張も同様に、日本帝国主義の東アジア進出が、欧米列強支配からの解放、社会的諸制やインフラ整備の貢献等の「解釈論」で合理化しようとしても現に当事国にも世界にも通用していない。因みに「東京裁判」でインドのパール判事は「日本無罪論」を展開したがこれは大戦前のインドの抗英独立闘争を頭山満ら「大亜細亜主義者」が支持し、ボースらを匿ったという因縁にまで遡らなければならない。この時も政府は「日英同盟」を根拠に及び腰だった。
もう一つのその陣営のレトリックは、事実の如何について「証拠」がなければあったことにならないという「推定無罪論」である。しかし、史実にいちいち証拠が必要というなら「歴史」は成立し得ない。隠滅された証拠もあるだろうし、歴史は、関係当事者や第三者の記録・証言、研究・調査、状況証拠、因果関係等から総合的に判断して体系化されたものなのである。彼らは歴史の断片を都合よく語っているだけで、そういう本質的、総合的視点がない。加えて、これは後述するが、彼らには人間の尊厳とかアイデンティティーとかメンタリティーとか言われるものへの視点がまるで欠落しているのである。これは「知性」の問題である。
(つづく)