イメージ 1Ψ筆者作 「天使の帰路」 グァッシュ ミニアチュール
 「絵画が趣味」という人は多い。そういう人の多くは、描く以上はあくまでも普遍的、本質的「絵画的価値」を希求し、「うまくなりたい」との素直な一心から為の相応の造形的努力もするものである。反面直ぐに「プロ」だ「アマ」という安直で愚俗な区分けをし、どうせ趣味だ、どうせアマだ、楽しければ良い、人の目を楽しませば良いなどと予め逃げ道を用意する御仁に限って、半端で本当の「アマ」にすらなってないし、描きたいものを描きたいように描けなければ楽しくもないし、「他人を喜ばす」など一人よがりの妄想に過ぎない。「絵画的価値」とは懐深く、ある意味寛容なものである。アンリ・ルソーやグランマ・モーゼスのけれんみのない素朴な造形性とは、「趣味」が「絵画的価値」に到達したものであり、そのような区分けや能書きの無意味さを如実に語っているのである。
 冒頭の真っ当な趣味については何にも文句はない。問題は真っ当でない「時間潰し趣味」が、価値の当事者のように、履き違えた自由の名で、真っ当な世界に通用しない「自己満足的趣味」をゴリ押しすることである。そういう者にとって、ネット世界とはそれ自体がヴァーチャル世界であり、匿名性にお覆われ、資格要件も発言の責任も問われないという利便性故の格好の受け皿となる。この受け皿のみが自らの存在を認知してくれる。認知しない者には猛然と反発し、排除に係る。
 以前自分のブログが炎上したのかバカにされたのかで、そのことに腹を立て秋葉で無差別殺傷事件を起こした者がいた。彼にとっては自分を支える大事な城が攻撃を受けたのだから、存在そのものを否定されたような猛烈な被害意識からの怒りの爆発であろう。これは極端な例だが性質が変わらないこの種のものは当カテゴリーのネットコミニュティ―でも数多知ることになった。
  以前、こちらが客観的に明らかな、造形の本道、絵画芸術の本質を語った場合、ことごとくそれに反対意見を言う者がいた。念のために言うが、それは筆者固有の思想でなく、例えば絵画を真摯に学びたいと思う人に対して、どの入門書や技法書にも書いてある常識的なことである。「面白い性格の人間もいるものだ」と思ったが、いずれも体系的な造形修行を一度は行った人なら決して言わないようなことを平気で言う。例えば大所高所の造形の基礎が全く出来ていないのに枝葉末節な手練手管や縁もゆかりもない具体的技法名を語っても意味はない。ただその「知識」をひけらかしたいだけとしか思えない。しかもその知識は生半可だったり間違っていたりしている。ことごとく反対するのは、反対するという「抵抗感」そのものにしか自己主張の根拠がない、あるいはある種のコンプッレックスの表れであろう。たまりかね「君は本当は絵を知らない!」と言ったらやがて姿を消した。
 ところが「類は友を呼ぶ」、邪道や至らないものを、自らそうであるが故に認知し、支持し合う仲間が現れる。それが、褒めあったり、お愛想を言い合ったりしている分には、所詮「勝手」な世界で文句はないが、真実や本質を究めようとする真っ当な世界にしゃしゃり出て、デタラメを言い放ち、自我のヴァーチャルさや低次元にをそれを合わせて語ろうとするのだから看過できるはずがない。
 例えば、他人が撮った写真や、パンフレットの、その他人のものである構図や色彩をそのままパクリ、既に広くヴィジュアルな評価の定まった、有名景勝地の写真の転写作業(それも半端な)を絵画と称し、自らの手の届くレベルの安直・平易なローカル世界で何某かのごりやくにあずかろうとする、これはもう、創造とか造形とかは無縁の巾着切り(きんちゃっきり)のような「作業」であるが、そのような造形的価値や創造の意義と縁のないものが認められる筈がない。風景画が写真で済ませられるのなら画家は月でも星でもなんでも描ける。数百年も前から、何故画家は重い画材を背負い、モティーフを求め自然や街を流離ったか?この意義に思い及ぶ知性すらない。
 都合良く自らを評価するものだけを受け入、自らを否定されるや猛然と反発する。毒を食らわば皿まで、「日本中の絵描きは税金も払っていないカタリである」との悪口雑言を吐きながら、自らの低レベルにあわせるためにはデタラメで、幼稚で、思いつきの能書をもって絵画や画家を卑しめ、貶める必要がある。墓場まで持っていけば本人は満足だろうが、絵画芸術の名においてその罪と恥は許されることなく末代まで祟られることになろう。
 他にもある。こちらがある件につき自らの思想を述べた場合、これに反論があるなら堂々と自分の意見を述べればよいのに、その知性もない、自分の言葉で自分の思想を語れない、そこで搦め手から思わせぶりな嫌味や皮肉を、何の労も要さない短めの言葉で返す御仁もいたが、これも巾着っ切り。あるいは当人の何たるか、その創造力や思想の如何など公然し得ず、HNを変えながら気に食わない者の足の引っ張るだけ、あるいは現実を見ない観念論、あるいは前述したような逃げ道を用意しての開き直り、凡そまともな議論にならいのもヴァーチャルさの所以である。
 これらの自らを認めないもの、自らが否定されたことへ逆上するという意味で、先に述べた秋葉の通り魔と本質は近い。彼らはお互いに都合が良いという意味では仲間であり、これらによって折角のコミニュティ―は引っ掻き回され、廃墟となった。このような状況はしばしば「炎上」と呼ばれ、他のコミニュティ―に見られるがこのヴァーチャルさがネットコミニュティーが主体性ある文化になりえない元凶である。
 (つづく)