Ψ筆者作 「誕生」 グアッシュ ミニアチュール

ips細胞に係る山中教授の実績を上回るような成果をあげたとするMに関する読売の報道は事実関係について全く疑わしいということで同紙の謝罪の上撤回された。Mの経歴については「研究員」とか「客員」とかもっともらしいものが多かったが、事実は大学も看護学部出身で医師の資格はなく、臨床治験もほとんどウソ。 しかしこの人間途中までは全うな仕事をしていたようで、いつの間にか妙な方向へ行ってしまったという印象を持つ。その経緯を想像するに、やはり彼は「学研者」たる地位願望や何某かの価値への憧憬があり、その思いが募り、いつの間にか引き返せないところまできてしまったというとこだろう。結果的には、マスコミを躍らせただけの騒動に終わった。
その後マスコミの関心は彼の人格についてに向いた。彼は何畳かのアパートに一人暮らし、そういうある種の閉鎖環境で、いっそう自分自身の世界に閉じこもり、それがドンドン膨らみ当事者になったような気がしてヴァーチャル世界を作り上げてしまったとして、彼を評して「オタク」という人もいた。
もう一つ、事件の内容は違うが、ハンデを背負った「現代のベートーベン」としてその方面での評判を得たが、実は総て他人が作曲したもので、そのハンデも疑わしいという、世間を騙し続けていた御仁も現れた。
二人とも一体すぐにバレるようなことを何故したのか、これも、ある程度で止めておけばよいのに、周辺の経緯から収まりがつかないところまで行ってしまったという事件である。この二例で感じるのは、最初から世間を騙して利益を得ようという悪意以前に、先にも述べたが両者供何某かの価値への憧憬があり、自我をその当事者たらんとする願望があり、それが独自のヴァーチャル世界を作り上げ、ドンドン膨張し、ついには戻れないところまで行ってしまったということ、もう一つはそういうものにつけこまれるような、話題性や権威主義に安易に飛びつくという文化的土壌がこの国にはあるということである。
言うまでもなく、ヴァーチャルでない、実体世界で一つの価値を追究するというのは、簡単なことではない。それも誰かがお膳立てしてくれ、さあ、どうぞというわけではない。様々な現実と戦いながらということになる。その現実の中には、資質、才能のようなシビアなものは当然であるが、先ずは価値と向き合い、自我の無能、無知、鈍感、未熟を謙虚に認識し、しかる後この克服をすべく努力をするというのが普通である。価値と向き合うということはそれを直視し正対するということである。問題はそうするにも資質や能力が必要であるということ、それが無い者は何某かの思い込みと願望だけでその気になってしまう。先の二例もこれに類することであろう。。
最近サッカ―絡みで最もと思える記事に出くわした。それは、一次リーグ敗退に関し「自分たちのサッカ―が出来なかった」という一部選手の言葉の「ネタ」化である。例えば会社に遅刻したら「自分の通勤が出来なかった」とかなど。同時にタモリは「ありのままの自分」とか「自分らしさ」とかの言葉にも腹が立つと言って言っているという。ヴァーチャルなネットではおそらく少数派だろうが、「自分探し」や「オンリーワン」という言葉にも反感を持っている部分があるらしい。結論は「暗示をかけて現実から逃げて、弱い自分をごまかしてるだけ」といったものとのことで結んでいた。
この「自分らしさ」は「弱い自分をごまかしているだけ」という意味は、「自由」や「個性」や「既存の価値」の否定を方便に、自らの器量や趣味的嗜好にあわせて、都合の良いヴァーチャル世界に同化したり、真実や本質を直視せず、あまつさえ価値とは縁もゆかりもないものをデッチあげるという傾向にも通ずる。本当の自由や個性や既存の価値の否定というのは、そう易々とできるものではない。ひとたびは本来の価値に正対し、これを直視しなければ何が自由か個性かどこが新しいかを知ることすら不可能である。
ヴァーチャル(ここでは「虚構」とも呼ぶ)な世界への逃げ道は随所にあるといわねばならない。
(つづく)