
具体的に論を進める。前稿述べた通り、美術・音楽等文化芸術は当然に「真実」として評価すべきものの一つであるが、残念ながら本邦のそれは当然にはそう言えない。なぜならそれは本邦の場合ほとんど国家という虚構の支配を受けてきたからである。例えばそれは従前から、宮中文学、朝廷(土佐派)や幕府(狩野派)の「お上(おかみ)」御用、藩の「お抱え」などの土壌があったが、洋画について言えば、その造形性が本邦に導入された当初より、官学、官展、国家褒賞制度等、帝室技芸院から今日の芸術院に至るまでの権威機関を頂点とする国家の敷いたレールの上に置かれていたということは当ブログ「日本洋画史逍遥」で述べた通り。これは戦時の「彩管報国」という、芸術が国家・国策に丸抱えされるという、世界にも例がない恥ずべき象徴的事例により証明され、昨今の「日展問題」もその因習の必然的帰結であり、これも同様にこれら経緯の証左となるものである。
勿論西洋においても、王侯貴族、宗教界の支配と迎合があったが、個々の創造者にそれらを超越する圧倒的力量があったため、今日普遍的芸術(東西古今を超越するもの)、としての美術史上の位置があるのはルネッサンスを見れば明らか。
以下既出拙文抜粋を援用して要旨を述べる。
≪本邦の今日に至るまでの美術界を見るにつけ、そもそも絵画とは何か?芸術とは何か?を考えさせられる。その答えは西洋美術史上の先達を見れば簡単に見出されるようだ。その答えがあまり当たり前すぎる故、本邦のかかる事情が一層異常に思えるほどだ。…中略…この画家達には共通したものがある。それは言わば、≪我が頭上には白日のみぞ輝ける、我足は大地にのみぞ支えらる≫、即ち「上方は何の権威も戴かない、下方は何からも支えられない」自らのみが存在し、その座標の中から自ら信じる絵画的価値を只管希求するのみ、その創造行為は、自ら問い自ら出す、自我の何たるかの回答以外の何ものでもなかったということである。彼らには「作為的個性」は必要ではなかった。「百万ありといえども我行かん」という精神の有り様が既に強固な個性であったからである。
芸術とは「自我」による純粋で新しい価値の創造である。その価値が何かに代位されたり、既成の価値の一部であったりすればその創造は存在する意味がない。代位するものや既存の価値を見たほうが早い。…中略…翻って本邦美術界はどうか?その質の違い、落差を感じざるを得ない。…中略…本邦多くの創造行為は個人の行為ではなく「運動」である。その運動も理念ではなく、その団体のシステムやメカニズムをこなす俗な「社会性」に他ならない。団体最上部に大家、ボス連を据える、次に委員、会員、準会員、会友、平出品者などの序列がある。最上部の上は諸々の国家褒賞制度があり、その栄誉のため書くにも憚るような「別の運動」が行われる。内覧会とか下見会、内審査とか言われるものは、出品者は自らの顔や名前の売り込み、上位の者は自らの「子分」を一人でも増やす恰好の契機となる。これが「情実選考」の温床である。
昔筆者はある画廊が主催する全国公募の風景画コンクールに出品したことがある。全国公募ということもあり入選率は一割程度、結果は四席だったが、賞金の出る三席まですべて複数の団体に属する審査員達の弟子筋、一席は某審査員の息子だった。五席や平入選にも数多くの関係団体出品者が含まれていた。先の三者はその後当該各団体の幹部筋になったようだ。市井の公募展でもこの有様である。…中略…確かに美術界の、国家褒賞を頂点とする権威主義、ヒエラルキ―、因習、伝統は、他の文化にも見られる、世襲制度、家元制度、情実主義、地縁血縁、門閥学閥等はなどと同じ「国民性」において繋がっている。しかし、冗談ではない!「公募」と称し、何も知らない一般出品者から出品料だけを取り、壁面が特定個人や傘下の団体で占められるとしたらこれは刑法の詐欺罪に当たるのである…中略…そうした構造が中心の土壌の中で個々の画家がその立場を主張するにはどこかの会派に属し、自分がいかにエライ画家であるかを示すような「曰く因縁故事来歴」を作品に添付する、すなわちこれでもかこれでもかとあらん限りの画歴(筆者はこれを「ガレキの山」と言っているが^^)を添えるというシステムが常態化され、画商もそういう付加価値で値を吊り上げ、買う方も何某かの「有難み」を買い、画家はいっそうのステータスやアドヴァンテージを求め、俗物化し、そういうメカニズムの繰り返しのうちに、芸術が「集団的メカニズム」の中で展開するという、世界に類をみない、金ピカの看板と勲章に額縁つけて売るような、歪んだ美術界・市場を形成するに至ったと言える。…≫
実は上記拙文は2013年10月27日付の当ブログのものであるが、正にその3日後の30日、朝日新聞によりその日展をめぐる大問題となる、入選者数事前振り分け、下見会、金銭授受等の不正がスークプ報道されたのである。当然国家褒賞、権威主義、ヒエラルキ―等悪しき因習が問題となった。この他にも他書道団体による、架空の出品者への「知事賞」授与、ための同一人が変名で数多く出品するなどという呆れた事件もあった。因みに日展問題の発端となったのも「書」の分野であり、他の例などからもその世界の救い難き卑俗さを感じる。これは、公募展とは出品者を増やすため入選者や褒賞の「インフレ操作」にも繋がり得る事例である。
ともかく、諸々の上記事例から、本邦美術界とは、芸術文化として「真実」希求の純粋な世界とは別の、愚俗な社会性に支配された「虚構」であるとしか言えないではないか!
(つづく)