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Ψ筆者作「もうしわけございませんでした!」 アセッコ・カゼイン ミニアチュール 
  「色即是空」の我流解釈かもしれない。齢を重ねるとは、人や事象(物事)の「正体」がだんだん分かって来るということか。極論気味に言ってしまえば人はやがて消えゆく「浮遊霊」であり、事象は総て幻想である。そして人が人生の最後に行きつく思想とは「諦念」である。
 それにつれ意識的に人生の価値無価値を整理し、迷いを捨て、来るべき時に備え、あとは明鏡止水、そういうことに憧憬するようになった。 
 しかしその浮遊霊も外見はそう見えない。「人間関係」とか「人間社会」とかの宿るべき場所、「存在」を与える「仮の器」があるからである。仮の器であるということは虚構であるということ。国家、政治、経済、法律、歴史、「文化・芸術」(カッコつき)、科学技術、家族を最終単位とする諸々の社会性…先ず基本的に総て虚構と思った方が良い。これらのほとんどは虚構を維持管理する方便であり、とりあえずの約束事であり、力関係、利害関係やご都合主義に支配されている。
 世や人のなんと実(じつ)のない虚飾、ウソ・ハッタリ、ホンネ・タテマエが多いことか。コミニュケーションも社交辞令や自慢話、どっちつかずの事なかれ主義に付き合わされるのは面倒臭く御面蒙る。つまり、最終的に押しなべて「信じる」べきではない!
 若い頃は誰しも希望や目標や期待がある。それに応じ、何某かの達成感やアドヴァンテージや満足を得て喜ぶ。ところが何年か経つとそれがそれほどのものではなかったということに気づく。そのうち、ひと(他人)の底が見え、期待は裏切られ、人間社会の諸々の美辞麗句もウソ臭いお題目に聞こえる。ダメなものはなにをどうやってもどうしようもない、救いの神は現れないし、奇跡も起きない。あとには空しさ、払拭しえない後悔、逃げ出したくなるような恥や自己嫌悪や劣等感が残る。偉そうなことを言ってても人間とは愚かさを繰り返す、時に滑稽で、他愛ない、いじらしいくらいの存在なのである、こうした人間で構成される諸世界が虚構でないわけがない。このように歳をとるにつれ若い頃は見えなかったものがだんだん見えてくるものだ……少なくとも個人的にはこの実感は否定しようのない事実だし、ひとたびこのように総てを信じられないものないと決めつけるとことにより、逆に真実が見え来たというのも実感である。言い換えると、虚構に支配され虚構のメカニズムに支配され続けている限り真実は見えてこない。そういう人間は哀れに思うだけで尊敬も軽蔑もしない。「ヴァーチャル」なものは排除するだけ。その種の無駄な時間は一瞬たりと言えども失いたくない。人や事象との関わりもワンチャンス、総ては縁。
  真実とは、永遠、絶対等不動の概念たる「無為」、事象の底流にある「本質」、そして人間の純粋な感情や認識、美意識に直接関わってくる「価値」等の言葉に置き換えられる。
 筆者にあっては、憧憬し希求し表現したいこの「真実」に類する具体的ものとは、動植物の生命を含めた自然、先達が生活と戦いながら遺した、絵画、クラッシク音楽等諸芸術中の価値、それらが息づくヨーロッパの古い町へのイメージ、ノスタルジー、そして歴史の中の、まさに虚構たる無益な岩石層の中の金剛石、あるいは大河の泥濘が沈殿した後に残る僅かな上澄みなどのような、時に先の創造のテーマ、モティーフとなる、時空を超えて、見え隠れしながら存在している真理、原理、真実、これらこそが我が創造行為に展化すべき、一度しかない我が人生にその価値と意義を与えてきたものと信じる。
 一般的にも前提として言えることは真実を求めるためには、その意志、資質、能力、努力等が必要であるということである。最初からその気がない、あるいは虚構そのものが満足というなら話は存在しない。真実に向き合うには、向き合えるだけの相応の属人的要件が必要なのは当然であるろう。