Ψ 筆者作 「廃園の青いバラ」 油彩 F20
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 例えばキリスト教図像や人物表現について、当初はイコンのような素朴さ、やがてドラマティックにシンボリックに、やがて人間臭くさらに厳格にリアリスッテクに…などの表象上の推移や芸術の諸々の環境事情や○○時代の芸術の特徴は云々などの「論述美術史」のみで語るのはその半分しか語ったことにはならない。
 上記について言えば、実はそれは素材の試行錯誤に伴う造形性の変遷そのものなのである。「風景画」が美術史上登場したのも、画家の造形思想や視点が変わったというのみではなく、風景画を描かし得る油彩という素材の登場あればこそに他ならない。分かり易く言えば当「全素材…」で取り上げたテンペラ、フレスコ等各素材では純然たる風景画は無理なのである。即ち、風景画で造形的リアリズムを追究するなら、質感、量感、立体感、空や水の透明感、空間の広がり、奥行き等の表現は必須であり、それが出来るのは「トーン付け」が可能な油彩をおいて他はない。
 さらに印象派の色彩の展開や筆捌き、20世紀絵画の重厚なマティエールなどを可能にしたのも油彩の持つ様々な技術的多様性の為せる技である。論述美術史ではしばしば「マネの、大胆に陰影を省略し明暗の対比で描いたオランピアは日本の浮世絵等のそういう造形性の影響である」と言うが、そうできる素材を敢えてそうしなかったマネの造形性と、元々そうできない日本の素材とは識別して論じるべきであろう。
 改めて油彩という素材の「偉大さ」と油彩以前の画家達の試行錯誤の軌跡を思う。