
Ψ 筆者作 「bluerose」 油彩 SM
≪小生は彼の山のさみしき頂きより思出多き筑紫平野を眺めて、此世の怨恨と憤懣と呪詛とを捨てて静かに永遠の平安なる眠りに就く可く候。≫
上記はかの青木繁が死に臨んで詠んだものである。かくも死とは30歳に満たない青年にもこのような「透明」な精神を持つに至らしめる「エネルギ―」を持つものだろうかとの感慨を持つ。青木の子孫は「怨恨、憤懣、呪詛の文言から、きっと曾祖父さんは悔しかったんだろう…」と想像しているが、それもあるだろう。因みに筆者はその「悔しさ」が自ら信じる才能に見合うものが得られなかったということより、他の多くの画家がそうしたような、渡欧留学ができなかったことが相当あるだろうと想像しているが。
しかし考えてみると人間とは加齢とともに少しずつこのように透明になっていくものではないかとも思う。若い頃持っていた大木のような希望も、やがて一つづつそぎ落とされ、箸から爪楊枝ほどのものが残る、その中身は一言で言えば「諦念」である。つまり人生とはいろいろなものを一つづつ諦めていくもの、最後は自分自身の存在すらも諦めるものということになる。
例えばこう考える。もう人を憎んだり、恨んだり、軽蔑したり、呪ったりするのは止めよう。今までそうして良いことがあったか、人間なんてどう転んでも愚かで、脆弱で、俗で、迷い多く、他愛ない、やがて消えゆく、いじらしいくらいの存在なのである、とするならそういう人間や人間社会をまともに相手するのは面倒くさい、疲れるだけ。
自我もそうしたものに違いないが、そう考えると楽になり、早くから「透明」になったらその分純粋になれそうな気がする。さらに考える。芸術の極意とはこの透明な純粋さにあるのではないか、早晩人は死ぬ。会者定離である。その悲哀や喪失感を突き抜けた透明な世界。それはいつ死ぬかの問題すら超越する。そういう世界にその創造が存在する、それが本当の天才ではないかと。