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Ψ 筆者作 「青い排水路」 F8 油彩
 
 今フレスコ制作中。筆者は実作者だが美術史学徒でもある。当然幾ばくかの関係方面の書物に触れた。評論を含む西洋美術史のそれは、翻訳ものは当然、国産ものも、今一つピンと来ず、一部を除き概ね退屈だった。それは、その多くが、学研畑、評論畑、美術記者等「論述美術家」によって書かれたもの、というより、美術史そのものが彼らによって観念的に体系化されたものに他ならないということにも起因する。
 美術史とは同時に「造形史」であり「素材史」であり、個々の創造者の「思想史」である。真の美術史とはそれらの横断的、縦断的な把握なければ実体として体系化されたものとはならない。一例をあげれば、≪後期印象派≫などというのは実体として存在しないのである!
 上記論述美術家の多くは、自ら実作しない故に素材の事を知らない。したがって、画家の「造形思想」、創造へのモティベーションは自らの経験として追体験することはできない。しかしその立場で一個の独立したフィールドを目指さなければならない。勢い、解釈、論理の必然、推量、新事実の発見、視点や発想の転換等で膨らませた「創造的」展開となり、時に一体何の世界の事を語っているのかとの違和感を持つ場合もある。流派、作品傾向、地域などによる区分設定はその前提となる一合理的方便であり「約束事」となる。
 例えば流派の括りとはその意味で迂闊に受け入れられないものである。ピカソが良い例だが多くの画家が特定流派で括れるのはほんの一時期である。ヴラマンンクはフォーヴの代表格と言われているが、本人自らは「新古典主義」と言い、フォーヴはそこへ至る過程でしかない。佐伯芸術と不可分に語られている、ヴラマンンクによる「このアカデミズム!」のエピソードの「アカデミズム」とは美術史上の古典的アカデミズムとは別物であるし、佐伯自身「今はヴラマンクではない」とその「フォーヴ性」を否定しているのである。
 つまり、美術史以前に「造形史」が画家の内部に存在しているのであり、先ずこれを辿り、整理し、それでもなお見えてくる、時代と関連した絵画芸術の流れの普遍性こそが真の美術史と言える。
 本邦美術評論畑の大御所的存在で某登竜門的美術展の審査委員長格であったK氏は、例の「佐伯祐三贋作事件」で30数点ものニセ佐伯作品を見抜けず、その後の混乱の元となった。一方実作者であり修復家のU氏は同じニセ佐伯を一瞥しただけで贋作と看破し直ちに修復を断った。これは実作経験や造形感覚の歴然とした差による。
 さてフレスコに話をもどす。フレスコとは4000年余の歴史を持つ人類最古の壁画たる二次元造形である。否、ラスコー、アルタミラ辺りまで遡れば、壁画は数万年の歴史を持つ。その後壁画からタブロー、フレスコ、テンペラから油彩、昨今の新素材へと推移していったが、これをただの事実経過として語るのではなく、その必要性、そうなった必然性、それに伴う先達の試行錯誤等その素材、造形性を知らなくてはその意味の半分の把握にも至らない。油彩とは中世以降今日に至るまで二次元造形の中心的素材である。美術史上の画家と言えばほとんどがこの「油画描き」である。この油彩の意義、位置の真の理解は逆に油彩以外の素材を知ることで得られる。フレスコ、テンペラの古典画法を実体験することはその意味でも重要なことなのである。
 深い考えもなしに長く、英語で「絵画」のことを「painting」と訳していた。しかしこれは誤り。paintingとは正確には印象派以降の、絵具を筆でキャンバスに直接線や面を描く「ベタ塗り」絵画のこと。古典絵画は明らかにベタ塗りとは違う、「ハッチング」という線描描きや、グラシ(透層)と白色浮きだしの混合画法、グリザイユ、カマイユ等の分離画法等綿密で計画的なものであったということを実感したのは自らテンペラを実作してみてからで、その後の美術史を見る眼が大きく変わったのである。
 こう考えると思わぬところに視点が及ぶ。日本最初の洋画とは幕末の油彩ではなく、250年も前に遡る、「天草四郎の乱」の時の、山田右衛門作(えもさく)による陣中旗(重文指定)のテンペラではないか?右衛門作は南蛮絵描きとされ、ザビエルなどにより伝えられた南蛮絵画の技法を学んだとするならそれはテンペラに類するものであるはず、その脈絡とはザビエル→イエズス会→海外布教→言葉の壁を超越できる図像→イコン→テンペラと言う風に…など、上記「絵画」の訳もそうだが、このように素材と関連させたら「論述美術史」は土台が揺さぶられる可能性があるのである。
 
追記
 日展も八百長ならクラッシック音楽界もウソ、政治もマスコミもネットもスポーツも、ウソ、ハッタリ、八百長、やらせ、御都合主義…絵画と猫だけが真実!