この明治期以降の経緯は以下の既出拙文を援用する。
≪明治維新以降の国策のスローガンとは「富国強兵・殖産興業」、「欧米列強に追いつけ追い越せ」の掛け声であり、諸外国から持ち込まれる情報に驚き、価値観の転換を迫られ、遅れを取り戻すべく諸制度の整備を急いだ。これは外交、政治、経済のみのことではない。文化・芸術もその国策の一環として位置づけられ、絵画においても、西洋画の明暗法、立体感、遠近法などの新しい造形性の導入は必然のことであった。例えばそれは、それまでのりんごを「丸」で描くと言うのではなく、「球」で描くと言う合理性、科学性を求める。こうして、油彩と言う新しい素材を得ての造形アカデミズムの修行体系が確立される。 こうした背景の中から、やがて本邦洋画界は
〇明治美術会(浅井忠ら)→不同舎→太平洋画会→太平洋画会研究所(ヤニ派・古典主義系)
〇白馬会(黒田清輝ら)→白馬会研究所(紫派・外光派系 )
の二系統を中心とした勢力に大別される。
この両者はともに「官展」である文展(文部省美術展)、それを引き継ぐ帝展(帝国美術院展)の傘下におかれ互いに勢力を競った。また工部美術学校から東京美術学校西洋画部にいたる教育・修行機関も官立であり、美校の、浅井忠の「浅井教室」、黒田清輝の「黒田教室」はそのまま前二系統の反映であり、その後の藤島武二らを加え、洋画界の指導者的立場にあるものは、官展のボス、官学の教官、即ち文化官僚であり、黒田にいたっては後に「貴族画家」たる貴族院議員となった。
つまり本邦洋画界はその草創期から、官展、官学、文化官僚、また褒賞や留学の制度、絵画共進会や勧業博覧会などの発表の場を通じて、明確にその意思を持った、強力な国家統制、国家支配の中におかれていたのである。
川端画学校などの民間画塾もその修行機関であり、本邦近代洋画界に名を残した画家達でそれらのいずれかに連なっているいない者はないといってよい。というより、何かに連ならなければ画家として認知されなかったというべきだろう。
当初「文展出品者の出品を禁ず」をうたい明確に「在野」を旨とした「二科」以下も、例の「松田改組」と言われる国家による芸術抱きこみ策に飲まれる。やがてその国家支配・統制は戦争に傾斜していく国家主義の中では一層顕著になり、「彩管(絵筆)報国」はスローガンとなりやがて「日本美術報国会」や「戦争美術展」に繋がる。この日本美術報国会の会長が横山大観であり、彼の「富士山」は多く「国威発揚」のため描かれたものである。その「従軍画家」などの生き残り画家らが敷いたレールの上に今日の美術界の現況ある。…≫
〇明治美術会(浅井忠ら)→不同舎→太平洋画会→太平洋画会研究所(ヤニ派・古典主義系)
〇白馬会(黒田清輝ら)→白馬会研究所(紫派・外光派系 )
の二系統を中心とした勢力に大別される。
この両者はともに「官展」である文展(文部省美術展)、それを引き継ぐ帝展(帝国美術院展)の傘下におかれ互いに勢力を競った。また工部美術学校から東京美術学校西洋画部にいたる教育・修行機関も官立であり、美校の、浅井忠の「浅井教室」、黒田清輝の「黒田教室」はそのまま前二系統の反映であり、その後の藤島武二らを加え、洋画界の指導者的立場にあるものは、官展のボス、官学の教官、即ち文化官僚であり、黒田にいたっては後に「貴族画家」たる貴族院議員となった。
つまり本邦洋画界はその草創期から、官展、官学、文化官僚、また褒賞や留学の制度、絵画共進会や勧業博覧会などの発表の場を通じて、明確にその意思を持った、強力な国家統制、国家支配の中におかれていたのである。
川端画学校などの民間画塾もその修行機関であり、本邦近代洋画界に名を残した画家達でそれらのいずれかに連なっているいない者はないといってよい。というより、何かに連ならなければ画家として認知されなかったというべきだろう。
当初「文展出品者の出品を禁ず」をうたい明確に「在野」を旨とした「二科」以下も、例の「松田改組」と言われる国家による芸術抱きこみ策に飲まれる。やがてその国家支配・統制は戦争に傾斜していく国家主義の中では一層顕著になり、「彩管(絵筆)報国」はスローガンとなりやがて「日本美術報国会」や「戦争美術展」に繋がる。この日本美術報国会の会長が横山大観であり、彼の「富士山」は多く「国威発揚」のため描かれたものである。その「従軍画家」などの生き残り画家らが敷いたレールの上に今日の美術界の現況ある。…≫
上記通り、先ず最初の官展は第一次文展である。この文展は、明治美術会(後の太平洋画会)と白馬会の二大勢力がそのまま官展の中心となり、白馬会も太平洋画会も独立した団体展を開いていた。ここに今日の日展の「傘下団体」システムのひな型がある。因みに、1911年白馬会解散直後その白馬会系列の画家によって1912年光風会が設立されたが、同会が今日日展の有力傘下団体であるという因縁は他会派ともどもこの辺りにまで遡る。ほぼ同時期にできた二科会はそもそも「反官展」を標榜していたし、春陽会は最初から非官展系であった。いずれにしろ本邦洋画壇は当初から美術団体と言う集団性と官展の傘下団体中心主義の中にあったのである。
勿論こうした公募団体は、官展たるル・サロン(今日のサロンとは違う)サロン・ドートンヌなど御本家西洋画壇にもなかったわけではない。しかし周知のように印象派はそのサロンから排除されたグループであったし、本邦のように画家の芸術性が団体の実績や地位と不可分ということはない。
さて、縷々述べた因習、伝統であるが、本邦美術界は左様に団体中心で進んできた。団体とは国家により管理されやすい。その経緯は上記援用記事記載に明らかである。その長い経緯から画家のDNAには「お上(かみ)御用」を最高栄誉とする「お抱え絵師」根性が巣くっているのは否定できまい。これが国家褒賞(文化勲章、芸術院会員)を最高栄誉としそれに連なるヒエラルキ―である。これは非日展系も同じ。「内閣総理大臣賞」を最高賞としている団体は多い。そのヒエラルキーの原初的システムが諸々の「推挙」システムである。筆者はこれが諸悪の根源と考える。
(つづく)