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Ψ 筆者作 「冬声」 F15 油彩 
 先ず話は美術史概観である。中世ヨーロッパの美術や音楽はそのパトロン筋たる王侯貴族やキリスト教会の存在なくしては語れない。そのパトロン筋にとっても、芸術メセナは権力や教養のステータスシンボルとして必要でもあった。当然その肖像画や宗教世界の表現にはより高い技術や充実した内容が求められ、芸術家の側も相当な切磋琢磨無くしてはその地位を維持することはできず、巨大画面の受注に応ずる要もあり、画家組合や徒弟制度もそれらの必要性により生まれた。
 美術史上「○○作」と言われているものの中には、実際はその画家は、「○○画房」とか「○○派」と言う集団の指揮者で実制作者は複数いるというケースは多い。つまり当代の芸術は、送り手のモティベーション、受け手の価値観、表現されるテーマも、何某かの社会的メカニズム、即ち「集団性」の中にその意義が認められるものだったのである。しかし、メディチ家とルネッサンスの関係を見るまでもなく、それはそれで高度な芸術とその繁栄を生んだのだから意義がある。
 やがて時代が進み、諸々の革命、変革、戦乱を経て王侯貴族や宗教界は嘗ての権力を失い、市民階層の台頭とともに個々の人権や人格の尊厳が覚醒され、芸術も人間、個人の何たるかにテーマを移さなけれなその意義に適うことができなくなる。
 その意味で絵画芸術における印象派のもう一つの功績とは、人間社会の一段高いところにあり、現実味のなかった「集団的」芸術を、身近で手の届くところにある生きた現実の中に引き下ろしたというところにある。
 これを本邦に置き換えてみる。古代の絵画は、仏画や、「引き目鉤鼻」の大和絵として、これも西洋と同じく、宗教界や権力者のもとして生まれた。その後中世や江戸の封建制社会の中でも例えば土佐派は朝廷、狩野派は幕府と言う権力と結びついて、「集団的」文化として栄えた。その中で、先の西洋の印象派的な「人間的レベル」の意義あるもとして登場してきたのが歌麿、写楽、北斎などの浮世絵である。これらは役者絵や美人画から力士絵や哄笑を誘う春画まで、庶民の芸術としてのテーマが採り上げられ庶民文化としての地位を築いた。因みに印象派が日本の浮世絵に関心を示したというのは、その造形性もさることながら、そういう意味での共通性もあったと思う。これが旧来の集団性の所産だとしたら新鮮味は感じなかっただろう。
 ここまでは西洋と同じ流れである。ところがそこから先が違う。西洋の芸術が「個」のものとしてそのまま連綿と続き、再び集団性に戻ることがなかったのに比し、本邦は旧来の集団性はそのまま生きつづけ、のみならず新たな集団性も台頭してきた。この「新集団性」については後述する。
 再三述べるように本邦には西洋にない独自の文化的土壌がある。それは、朝廷・天皇家と権力者・幕府・政府と言う二重の権力構造と、島国という閉鎖環境の中で醸成された国民性による。言葉をランダムに羅列するだけでもその中身は説明されよう。≪権威主義、ヒエラルキー、官尊民卑、地縁血縁、門閥学閥、徒弟制度、家元制度、世襲制度、村社会…≫その国民性は文化・芸術においてもその因習、伝統として反映される。日本の「伝統芸能」などほとんどそれである。それはそれで良いところもあるという意見があるが、筆者は全くそう思わない。その最大の欠陥は真の「個」が育たないというところにある。個も集団性の中のそれでしか過ぎない。
 本邦美術界は明治期の西洋絵画導入時に、印象派の画法だけが取り入れられ、その個の精神は置き去りにされた。
(つづく)