
Ψ 筆者作 「水の中の風景」 F15 油彩
日展問題の記事を書いたら、やはりこの問題に関心のある人は多いのだろうか、いつもの数倍の訪問客があった。日展問題は最後の決着を見るまでまだまだ続きそうだし、今回は拙作も表示したいので別枠で収める。
さて「日展」とは「官展」の流れを汲むものである。官展たる最大の所以は「文部省主催」というところにある。日展が旧社団法人となったのは1958年だが戦後の1946年からそれまでは文部省主催であった。その源流は1907年の文部省美術展覧会(文展)に遡る。その前はと言うと、別記事で述べた太平洋画会有志の褒賞返還騒動があった「東京府勧業博覧会美術部」、青木繁がデビューした「白馬会展」等に留まる。
青木繁は「海の幸」をピークに、「わだつみのいろこの宮」の勧業博覧会での挫折と、それに因む「方寸誌」へのボロクソ批判投稿の後急速に凋落し、第一回文展出品作の「女の顔」、同第三回「秋声」が相次いで落選、九州放浪から30歳満たずしての死に至る。つまり青木は「官展」への入選経験はない。その青木の「海の幸」と「わだつみ…」は死後遥かにして重文指定と言う「国家褒賞」を受けたのだから運命の皮肉と言う他はない。
その後文展日本画部の独立、二科展創設を経て文展は1919年帝国美術院主催の「帝展」となる。重文と言えば、中村彝の「エロシェンコ」はこの帝展出品作だが、彝は結核の悪化により自らの作を会場に見に行くことはできなかった。因みに、彝とエロシエンコを競作した鶴田吾郎も同時入選しているが、「中村屋サロン」で見知っていたエロシェンコを目白駅頭で見つけ、モデルを頼んだのはこの鶴田である。また鶴田は後の「彩管報国」の格別の「功労者」となる。
佐伯祐三は出品を帝展にするか二科にするか師の藤島武二に相談するが、複数出品可の二科を勧められ、これが「画壇を震撼させた」と言われる佐伯のデビューとなる。仮に佐伯が帝展に出品していたとしたら、当時の帝展に佐伯を受け入れる度量があったとは思えず、御大藤島の力頼まずしては入選はおぼつかないだろう。
他に帝展には佐伯に縁ある者としては前田寛治がいる。前田は中村彝の著作と併せ、評判となったエロシェンコの画像を佐伯に見せるが、佐伯はルノワール風の柔らかい筆使いのそれを見て、「この線が気に食わん!」と言い放ったそうである。
なお、帝展の関係から彝の葬儀に藤島武二も弔問に訪れ、画壇の総帥の威風に座の一同緊張したという話もある。これらのエピソードはほんの一端だが、良くも悪しくも当時の美術界が帝展など団体中心の極めて狭い世界で展開していたということが覗える。
近年、その「帝展」の何周年かを記念した展覧会があったが、その図録を見ると、未だ当時の画家たちの西洋画に傾倒し、その技術を学ぼうとする「修行途上」の観否めぬが、その分の進取の気性が覗え、技術的にも内容的にも、今の日展の権威と惰性に安住したものよりかなり上と観る。特に鹿子木孟郎や中村不折の骨太の造形性を踏まえた迫真の描写力は今日あるを知らない。
当初二科は帝展出品者の出品を拒否するなど「在野」を標榜した。1936年当時は美術界の統合や改革をめぐり混乱、これを収拾せんとした「松田改組」などの流れに二科も飲み込まれ、やがて戦時色強まる中、美術界の国家支配は露骨となり、1937年帝展は再び文部省主催の「新文展」となり、戦中の「彩管報国」を経て戦後前述の旧「日展」に至る。
仔細は割愛するが、総じて官展系に限らず本邦近代洋画の流れは、団体、会派の流れそのもの、離合集散、人脈、利害関係等による内紛と団体間の相互批判の歴史といってよい。美術ジャーナリズムや評論も、個人の仕事は、陳腐だ、新鮮だ、停滞だ、飛躍だと団体に反映された団体の特色として評価され、創造者「個人」への視点が基本的に欠落していると言ってよい。 佐伯もそうだが一見団体とは無縁な、そのパーソナリティ―が強く伝えられている画家達も実は多くが団体展を足掛かりにしている。例えば、村山槐多→日本美術院洋画部、関根正二→二科、長谷川利行→二科、松本竣介→二科他、棟方志功→二科、岡本太郎→二科。
それは、明治期の西洋画の流入後、西洋画技法の修練場であったに画会、研究所がその指導者を通じ団体に直結していたということ、発表の場がそれしかなかったということ、内容も、古典主義、印象派、キューヴ、フォーヴ、シュール等西洋の模倣、追随であり、元々「個」の造形性、表現性を希求するという性格でなかったということ等が考えられるが、その底流に、地縁血縁、門閥学閥、情実、人脈等の日本的因習、伝統があったということは否めない事実だろう。
今回の日展騒動とはその意味で必然性のあることであった。本邦の団体展中心主義を克服しない限り、自由で純粋でフェアな美術界はあり得ない。かなりの実力者が最終的に団体を離脱しているか、最初から所属していないのはその証左の一つであろう。昨今の「アート」のポピュリズムは論外だが、筆者は日展問題は、この辺を考え直すべき象徴的事件と捉える。