問題のポイントを矮小化させるべきではない。本質は「日展の、書という科の、篆刻という部門で、傘下の団体に具体的入選数を割り振り、結果傘下団体以外の入選者はゼロであった、ということの不正」に限る問題ではない。つまり、「書」以外の科でも、具体的人数の割り振りがなかったとしても(あったかもしれないが)、事実上入選者は傘下団体に属する出品者に限るとしたら、それは、「公募」を名乗ることはできず、傘下団体外の一般出品者から出品料だけを取り、一人の入選者も出さないとしたら、日展とは本邦最大の詐欺団体になるのではないか、問題は単なる「公序良俗」の問題に収まらず法律にすら抵触しうる大問題なのではないかということ。
もう一つの問題は、そうした不正や情実選考は、金や力関係や人脈など俗臭紛々とした社会性から必然的にもたらされた構造的なものであり、そのヒエラルキ‐の頂点にキンキラキンの国家褒賞があるという現実である。つまり事が、「芸術の質」によらず諸々胡散臭い裏社会と因果するということ、本邦の芸術文化の「頂点」にそう言うものを戴くという国家的貧困さ、そしてこれは日展に限ったことではなく、明治期以来本邦の芸術・文化はこういう「伝統」と「因習」にあるということ、一方、真実芸術を愛するものはその純粋な価値以外に信じるものはなく、その立場でこれらは最早「芸術」の名において云々される範疇の話ではないということである。そして、この二件総てについては事実の公表、公正化、改革が為されなければ真の問題の解決にはならないと言うことも述べておかなければならない。
前にも述べたが、この種の問題が今日までにあからさまに取り上げられなかった原因は、審査とは価値判断に明確な基準があるわけではない曖昧なものであり、落選した作品については「下手だったから」と言ってしまえば誰も文句は言えないという、つまり不正を立証することが困難なものであったということにある。しかし、一般社会では「状況証拠」というものがある。諸々の状況証拠で一つの結論を推定することはできる。そしてその状況証拠は「真っ黒」である。
さて、別稿において筆者の公募展(非団体系)におけるエピソードを述べたが、その話を自らも絵を描く、都美術館内にある画材屋だったか委託搬入出会社だったかでアルバイトをしていた某氏と話した時のことである。
彼は「露骨だな、でもその程度の話じゃ驚かないよ」と笑って答えた。その際言った彼の言葉を思い出した。
「…日展の審査が公明正大とは誰も思ってない。ただ、仮に公明正大になったとしても「入落」の状況はあまり変わらいと思うよ。つまり、結果的にほとんど日展系で占められる。日展各傘下団体の出品者、会員等の総数はそれだけで、日展洋画の入選者数の数倍以上あるんじゃないか?
それに組織や経緯の是非や作品の内容はともかく、技術的には日展入選作は一定の水準にある。例えばそれが団体内のいろいろなポジションのためだとしても、確かに必死で上手くなる努力はしている。個人師事、研究所、教室、講習会、夏の合宿写生会…合評会などでの先生の厳しい批評に泣き出したりする。耐えられずに退会する人もいる。そうして努力している作品と、基礎が出来てない趣味程度のものやほとんど絵を知らないような人のものとは数段出来が違う。同じ具象と言っても、作品傾向の違いもあるし。それと、そうして顔や名前を覚えたり、自らの指導で上手くなった人と全く知らない人が同じレベルの場合、知った人を選ぶのが人情というものだ。…」
この話は一定に事実である。早い話が総てが傘下団体が作る「原子力村」ならぬ「日展村」の価値体系や利害関係のメカニズムなのである。ところが、旧官展の流れを汲む、本邦の権威ある「美の殿堂」であり、公益法人であり、誰でも応募できる国民に開かれたものであるためには「公募」の建前は崩せない。この建前と現実のギャップこそが問題なのである。
したがって、旧来の体制を維持し、やりたい放題したいのなら「公募」を外し、公益性を返上すること、それができないのなら組織や審査員制度の改革、会員や無鑑査の壁面規制、発表の場と公募の場の分離等あらゆる試行錯誤をすべきだ。当然「日展解散」も選択肢の一つ。
「受益者」たる出品者にしても、「向上心を持って努力している」というのなら、真に作品の芸術的価値そのものを世に問いたいのなら、自らがよって立つ舞台に係る好ましからざる世評はその足を引っ張るはずだ。
少なくても、《他に不正の事実はなかった、今後明朗化に努める、関係幹部の引責辞任》程度の幕引きでは何も変わるまい。